吉田裕『続・日本軍兵士』を読む

 吉田裕『続・日本軍兵士』(中公新書)を読む。袖の惹句から、

先の大戦で230万人の軍人・軍属を喪った日本。死者の6割は戦闘ではなく戦病死による。この大量死の背景には、無理ある軍拡、「正面装備」以外の軽視、下位兵士に犠牲を強いる構造、兵士の生活・衣食住の無視があった。進まない機械化、パン食をめぐる精神論、先進的と言われた海軍の住環境無視……日中戦争の拡大とともに限界が露呈していく。本書は帝国陸海軍の歴史を追い、兵士たちの体験を通し日本軍の本質を描く。

 

 日中戦争では日本軍兵士に栄養失調症の患者が多発した。作戦に参加した兵士たちは、毎日40km、55kmというような行軍をして、それから糧秣の受領、飯盒炊飯をして夕食とし、さらに翌日の朝食、昼食2食分を炊事するのでほとんど寝る暇がない。睡眠ができず過労の結果が栄養失調の原因となった。

 また大兵力を充足するために年齢が高く体力も劣っている者も徴兵した。装備も不足していった。軍服も劣化していった。羊毛を使っていた冬用軍服もオーストリアからの羊毛が途絶え、綿服に変わっていった。

 陸軍における機械化・自動車化の立ち遅れも際立った。1936年の時点で、アメリカの自動車生産台数は年間446万台、日本は1万台だった。アジア太平洋戦争が始まると日本も自動車(トラック)の生産台数は増大したが、粗悪品が目立った。後輪のダブルタイヤはシングルタイヤに、ボディーは木製、フロントブレーキは廃止する、ヘッドランプは1個に、方向指示器は取り外す。

 軍用トラックの生産台数はアメリカの20分の1以下に過ぎない。しかも日本ではガソリンが不足して、木炭車・薪炭車への転換がはかられる。それらはノロノロ運転やエンストの繰り返しだった。行軍演習の記録では平均時速15~18kmの低速だった。

 歩兵の負担量は体重の40%としたが、やがて60%にもなって体力消耗をひきおこした。例えば負担率50%は体重60kgの兵隊なら30kgの重量を背負って行軍することになる。現場の判断では体重の1/3が限界と判断していたが。さらに第27師団は100日間、ほとんど徒歩で2000km以上を歩き通している。しかも食糧の補給はほとんどなかった。

 戦闘用の装備に比べて衣食住はきわめて粗末だった。つまり衣食住の充実まで手が回らなかったのだ。簡単に言って国力以上の正面装備をするために、そのほかのことは全て犠牲にしたのだった。兵士や国民に犠牲を求めることによって。