関川夏生『砂のように眠る』を読む

 関川夏生『砂のように眠る』(中公文庫)を読む。副題が「私説昭和史1」、変わったつくりで短篇小説と評論が交互に6章ずつ並んでいる。小説は昭和30年代と40年代が時間的な舞台、そのときどきに作者とだいたい同じ年齢だった男の子、だが作者自身ではないと言う。評論もほぼ同時期に出版され、当時相当話題になった本を改めて読み込んでいる。

 その評論で取りあげられている6人は、無着成恭『山びこ学校』、石坂洋次郎青い山脈』『若い人』『あいつと私』『陽のあたる坂道』など、安本末子『にあんちゃん』、小田実『何でも見てやろう』、高野悦子二十歳の原点』、田中角栄私の履歴書』。

 関川の短篇小説も評論も大変面白かった。私は石坂洋次郎の一部と小田実の『何でも見てやろう』しか読んでいないが、ここに取り上げられた作品はいずれも有名なものばかりで、題名だけは知っている。『にあんちゃん』は小学校で連れられて映画を見に行った。

 石坂洋次郎は当時売れっ子で、日活で何度も映画化された。

 石坂洋次郎はすでに忘れられた作家である。『青い山脈』の歌はナツメロとして愛されつづけているが、その本家たる小説は、他の厖大な石坂作品とおなじくかえりみられない。当時あれだけ読まれたのに、現在に至るまで、ついに一度も批評の対象となることがなかった。(中略)

 彼の作品はある時期、日本の戦後そのものだった。その作品群を通底する思想の単純さ、明快さ、あるいは脆弱さは、そのまま戦後という時代の単純さ、明快さ、脆弱さを体現させているとも思われる。

 

 『にあんちゃん』は九州の炭鉱で働いていた在日コリアン2世の次女末子(10歳)の日記だ。炭鉱は閉鎖され、一家は限りなく貧しい日々を送っている。のちにその日記が光文社から出版されてベストセラーになり、その印税でにあんちゃんは慶大を卒業し、末子は早大を卒業した。関川のコメントが印象的だ。

 ひそかに考える仮説がある。

 ひとりあたりGNPが2千ドルを越えるとき失われるものは、プロボクシングの強さ、政治風刺マンガの鋭さ、そしてすぐれた「社会派」の映画である。では、得るものはなにか。それが、あてどのない深夜のドライブであり、貧困を動機としない売春であり、不要不急の商品知識と料理評論の氾濫のごときものであるのなら、やはり「戦後」日本は寒々しい花を咲かせつつ、やがて荒涼たる爽快さに満ちたうつろな時代を現出させるためにしか存在しなかったのだ、と苦く認めざるを得ないのである。

 

 本書の続編も出版されている。それらも読んでみよう。