十重田裕一『川端康成』を読む

 十重田裕一川端康成』(岩波新書)を読む。副題が「孤独を駆ける」、川端康成の評伝だ。私は若いころ川端が好きで、長篇など主な作品はほとんど読んでいた。もう50年前になる。そんなこともあって新刊が発売されてすぐ買い、早速に読んだ。

 十重田は本書で川端の作品が発表されたころの横光利一菊池寛など影響のあった同僚や先輩との交流、また川端の作品の書誌などを丁寧に紹介している。文献情報も詳しく、引用した先行研究を示して、さらに誰でも参照できるようにしている。

 当時の社会状況についても詳しく、川端が置かれた環境からどのように作品が成立したのかを追っている。大変根気のいる仕事だったと思う。ただ、それだけに作品論的な側面は少なく、中では「雪国」に関する章が比較的詳しく分析している。

 その意味で本書は川端康成研究書としてよくできているのだろうが、私のように研究者ではなく、川端ファンが作品について知りたいという欲求は少し肩透かしを食らった印象だ。ではお前はどんな川端康成論を期待していたのか。

 それに対しては理想的な例がある。加藤周一『日本文学史序説 下巻』(ちくま学芸文庫)だ。ここの川端康成に関する部分を抜書きする。

 

 川端は少女と焼物を愛した。たとえば「生命が張りつめてゐて、官能的でさへある」志野の茶碗(「千羽鶴」)。水指の表面は川端の主人公にとっては、女の肌と区別し難いものである。「白い釉のなかにほのかな赤が浮き出て、冷たくて温かいやうな艶な肌」(同上)。同様に女の肌は、ほとんど陶器の表面そのものであって、「白い陶器に薄紅を刷いたやうな皮膚」(「雪国」)でなければならない。焼物も、女も、見て美しいばかりでなく、指で触れ、その指の先の感覚に、主人公とそのものとの関係のすべてが要約されるような対象である。(……)一方には、女の物化があり、他方には、物の官能化がある。女は焼物の如く、焼物は女の如くである。

 この点に関するかぎり、川端の小説は一貫していた。「伊豆の踊子」の少女の「若桐のやうに足のよく伸びた白い裸身」から、30年近く経って、「みづうみ」の「夜の明りの薄い青葉の窓に、色白の裸の娘が立っている」ときまで、女は常に視覚に、触覚に、あるいは聴覚に訴える美しい対象であり、彫刻のような物であって、決して主体的な人間ではなかった。その極端な場合が、「眠れる美女」である。(……)超現実主義的な「片腕」に到ると、もはや女の側には肉体的な全体性さえもなくなり、「エロティック」な対象は、女の身体の一部分に集中するのである。

 

 加藤周一の見事な川端康成論だ。そして、続けて、

 

(……)「雪国」はあきらかに川端の最高の傑作であり、おそらく両大戦間の日本のすべての小説のなかでも傑作の一つである。

 

 と高く評している。

 私の求めるものが違っているのかもしれないが、十重田の川端康成論には加藤周一の視線がない。ならば中公新書ちくま新書が、新たな川端康成論を企画出版することが可能だろう。それが出版されればぜひ読みたいと思う。