森村誠一『老いる意味』(中公新書ラクレ)を読む。副題が「うつ、勇気、夢」というなんだか取り留めないもの。90歳近い老作家が老いについて書いている。ある日、鬱になった自分を発見した。朝がどんよりしていた。言葉が出て来なくなった。認知症を併発しているようだ。思い出す言葉を広告の裏などに書き散らしていった。家の中が言葉であふれた。玄関の扉にも、トイレの入口にも、寝室の扉にも・・・。医師にすがった。そして3年がかりで光と言葉を取り戻した。
2019年には『永遠の詩情』という詩と散文で自分の半生を振り返った1冊を発表出来た、として極めて下手な詩が掲載されている。
夢というものは
果てしない。
終点のある夢は
夢ではない。
夏が立ち去り
排ガスと騒音に満ちた
都会の空が
高くなる。
微塵ひとつぶ浮いていない旅先から
光化学スモッグと騒音の街に帰り、
ほっと
我が町に帰って来たように
安堵する。
これが我が町
旅先の自然に
身心共に洗われた私は、
豊かなな自然のなかに
放散した我が身が、
なぜか
もっとも汚染されている都会に帰って来て
ほっとしている。
(後略)
これを読むと森村さん、まだ言葉が失われたままのように見える。これだけ大作家になると、編集者も遠慮して何も言えないのだろう。
その後も、「老いと老化は別」とか「老後は人生の決算期」とか、「余生にまで倹約を続ける必要はない」だの、「いい意味でのあきらめも必要」、「欲望は生きていくうえでのビタミン剤」などなど、凡庸な提案が並べられている。
参考になる話もあった。
配偶者に先立たれるとまるでやっていけない男は多い、としてパイロットだった友人の例をあげる。現役時代は服装もダンディで、いつも身ぎれいにしていたが、奥さんに先立たれてから服装が一変した。服は薄汚く髪の毛はボサボサになった。自宅に行ったら、部屋中に服が脱ぎ散らかされているばかりか、カップラーメンやレトルトの包装などが散らばっていた。
私がこの話を娘にすると、父さんだってそうじゃない、私がいなかったら部屋はごちゃごちゃだよ、と。気を付けよう。
森村は編集者に勧められて本書を書いているものの、実はそれほど書く事がない。文章は句点ごとに改行しページ数を稼いでいる。コーヒーの淹れ方を詳しく書いたり、ループタイは年寄りっぽく見えるとか、シニアラブもあってもいいが、プラトニックであるのが望ましいとか、一生懸命書くことを絞り出しているようだ。
で、私の印象は「森村さん、無残!」