中井久夫『私の日本語雑記』を読む

 中井久夫『私の日本語雑記』(岩波現代文庫)を読む。これが素晴らしかった。日本語雑記の表題通り雑記なのだが、文章論であり日本語の特徴論でもあり、また言語の起源論にも及んでいる。専門家ではないと謙遜するが、その内容はとても深く「雑記」という表記が勿体ないくらいだ。中井は精神病理学者、『分裂病と人類』などの著書がある。

 

 英語のように屈折語から孤立後に変化した言語はあるが、逆は知らない。英語覇権下の現在、孤立語への動きを以て言語の深化の王道とする見解が蔓延しているが、果してそうか。言語が他言語の圧力下に生き延びた結果の、一種の終着駅とみることもできそうである。

 歴史をひもとけば、ドイツ語の一方言に等しく、屈折性の高かった古英語が二、三世紀のうちに孤立語となったのは、デーン人制服王朝の下である。支配階級は被支配階級の言語の格変化などをわざわざ覚えようとしない。こうして格変化のないままの語法が定着する。たとえば今も格変化が目立つスラブ諸語であるが、ブルガリア語だけはトルコによる500年の支配を受けて、名詞の活用を失っている。孤立語は奴婢の言語であった歴史の傷跡でもある。

 では、トルコ支配下ギリシャ語が、単語は3割の輸入を許しても孤立語化しなかったのはなぜか。トルコ帝国が事実上ギリシャ人官僚によって運営されていたことも、ギリシャ正教が公認されていたこともあるだろう。

 孤立語となったおかげで、英語のほうは引き続き1066年以降3世紀のノルマン人の支配下に下層階級の言語となりながらも、フランス語という文化言語の風雪を凌ぎつつ、外来語を取り込む自由が格段に増大した。北欧語、フランス語、ラテン語などから多くの語彙を取り込んで、チョーサー、スペンサー、シェイクスピアの言語となり、ついに地球語の地位をうかがうようになった。

 中国語は古代から孤立語だった。しかし、元来はどうか。格助詞のような文法的小道具があったが、布の貴重さ、竹に彫る手数の故に省かれ、ついで失われたという推測を聞いた。

 かりにそうだとしても、それとは別に、西から来た少数の周人が平原に住む多数の殷人を征服したようなことは繰り返し起こったにちがいない。「歳」と「年」など、同じ意味なのに2種類ある文字は、一方が多数被征服者である殷人の、他方が少数支配者である周人の字であると教わった。また漢字は秦の始皇帝によって初めて統一されたが、その過程で文法的構造も統一されていったであろう。そうして異質の言語を統一する過程は、一般に孤立語に向かうのではないか。

 他方、英語に見るように、いったん孤立語になれば、自己の文法的骨格を保存しながら他言語の語彙を逞しく取り込むのに適するようになる。ロシア語のような屈折の多い言語の外来語の取り込み方はどうもぎこちない。

 

 

(日本語の)語順は変化して英語に近づく。元来、膠着語屈折語に似ているから語順をかなり自由にできる。こういう変化が日本語に起こる一方、「正しい英語」を使う「純正英語階級」と、そうでない「和英語階級」とに分かれるだろう。上位志向者は前者をめざす一方、過去の膨大な日本語文学の蓄積は次第に古文書学者に委ねられるコーパスになる。特権的知識人の資格は英語以外の言語もできることとなるだろう。50年前には英仏独の3言語ができればよかった京大では、近年はスワヒリ語で議論しないとカッコイイとされないと聞いた。他方、日本ではなくニューヨークで流行っている表現が大衆にはカッコイイとされるであろう。支配者の「純正英語階級」は、「和英語階級」に対して、ノルマン人が土着アングロサクソン人に臨んだように、英語で歯に衣着せず非情な決定を語れるようになる。今の政治家、官僚の好きなカタカナ英語は韜晦のためであるが……。しかし、「純正英語」をめざす諸君も大部分は借り物の英語にとどまる。母語以外での思考の独創性が到達困難となる。テレビの英語放送が基準になるだろう。

 

 

 21世紀になってDNA鑑定が急速に普及してきたといっても、父親であることは基本的には今も「信頼」にもとづいている。

 ニューギニアには、女性が比較的初期に数人あるいはそれ以上の男性と交わる部族がある。古代日本にも年に1度、人妻との自由な交わりをも許される歌垣はある。しかし、ニューギニアで面白いのは、妊娠した女性は父親を指名できることである。「あなたが父親だ」といわれれば、たとえ、その女性と交わった覚えがなくとも拒否はできない。二人は夫婦となる。

 また、最近までエチオピアでは「処女」とは「処女と自称する女性」のことであったという。

 

 

 本書は、岩波の『図書』に2006年7月から2009年5月まで隔月に18回掲載したものだという。素晴らしいエッセイを連載させた『図書』編集部の功績も大きいと思う。