高見順『死の淵より』を読む

 高見順『死の淵より』(講談社文芸文庫)を読む。1963年(昭和38年)、高見順食道がんと診断され、手術を受ける。翌年6月、再度入院し手術を受ける。詩集「死の淵より」を発表する。これによって野間文芸賞受賞。12月入院し手術を受ける。翌1965年3月、また手術を受けるが8月17日死去、享年58歳。

 詩集『死の淵より』はこの食道がんと診断されてから、入院して手術を受けた前後に書かれた詩を集めたもの。

 食道がんと診断されて手術を受け、強く死を意識して詩を書いている。私も一昨年、同じ病気と診断され、昨年手術を受けた。だから高見の詩集を同病者として読んだ。詩集は野間文芸賞を受賞している。だが、仲間の文学者である選考委員たちが高見の病気に同情して賞を与えたのではないか。

 高見はこの時57歳、死を覚悟するには少し早いかもしれない。同じ病気を宣告された私より15歳も若かったのだ。この15年の差は大きいような気がする。15年前だったら私も高見のようには動揺しなかったと言い切る自信はない。

 『死の淵より』に収められた詩は言ってしまえば推敲が足りないのではないか。もっと厳しく己の死を追求すべきではないのか。

 食道がんと言えば、開高健高橋三千綱立原正秋田村隆一団鬼六宇佐美圭司赤塚不二夫立川談志吾妻ひでお、筒井伸輔(康隆の息子)もそうだった。酒が弱い者が強い酒を飲み続けるとなる病気だと医者が言っていた。なるほど。

 高見順「おれの食道に」全文を紹介する。

 

おれの食道に  高見順

 

おれの食道に

ガンをうえつけたやつは誰だ

おれをこの世にうえつけたやつ

父なる男とおれは会ったことがない

死んだおやじとおれは遂にこの世で会わずじまいだった

そんなおれだからガンをうえつけたやつがおれに分らないのも当然か

きっと誰かおれの敵の仕業にちがいない

最大の敵だ その敵は誰だ

 

おれは一生の間おれ自身をおれの敵としてきた

おれはおれにとってもっとも憎むべき敵であり

もっとも戦うに値する敵であり

常に攻撃しつづけていたい敵であり

いくらやっつけてもやっつけきれない敵であった

倒しても倒しても刃向ってくる敵でもあった

その最大の敵がおれに最後の復讐をこころみるべく

おれにガンをうえつけたのか

 

おれがおれを敵として攻撃しつづけたのは

敵としてのおれがおれにとって一番攻撃しやすい敵だったからだ

どんな敵よりも攻撃するのに便利な敵だった

おれにはもっともいじめやすい敵であった

手ごたえがありしかも弱い敵だった

弱いくせに決して降参しない敵だった

どんなに打ちのめしても立ち直ってくるのはおれの敵がおれ自身だったからだ

チェーホフにとって彼の血が彼の敵だったように

 

アントン・チェーホフの内部に流れている祖先の農奴の血を彼は呪った

鞭でいくらぶちのめされても反抗することをしない

反抗を知らない卑屈な農奴の血から

チェーホフは一生をかけてのがれたいと書いた

おれもおれの血からのがれたかった

おれの度しがたい兇暴は卑屈の裏がえしなのだった

おれはおれ自身からのがれたかった

おれがおれを敵としたのはそのためだった

 

おれは今ガンに倒れ無念やる方ない

しかも意外に安らかな心なのはあきらめではない

おれはもう充分戦ってきた

内部の敵たるおれ自身と戦うとともに

外部の敵ともぞんぶんに戦ってきた

だから今おれはもう戦い疲れたというのではない

おれはこの人生を精一杯生きてきた

おれの心のやすらぎは生きるのにあきたからではない

 

兇暴だったにせよ だから愚かだったにもせよ

一所懸命に生きてきたおれを

今はそのまま静かに認めてやりたいのだ

あるがままのおれを黙って受け入れたいのだ

あわれみではなく充分にぞんぶんに生きてきたのだと思う

それにもっと早く気づくべきだったが

気づくにはやはり今日までの時間が

あるいは今日の絶体絶命が必要だったのだ

 

敵のおれはほんとはおれの味方だったのだと

あるいはおれの敵をおれの味方にすべきだったと

今さらここで悔いるのでない

おれ自身を絶えず敵としてきたための

おれの人生のこの充実だったとも思う

充実感が今おれに自己肯定を与える

おれはおれと戦いながらもそのおれとして生きるほかはなかったのだ

すなわちこのおれはおれとして死ぬほかはない

 

庭の樹木を見よ 松は松

桜は桜であるようにおれはおれなのだ

おれはおれ以外の者として生きられはしなかったのだ

おれなりに生きてきたおれは

樹木に自己嫌悪はないように

おれとしておれなりに死んで行くことに満足する

おれはおれに言おう おまえはおまえとしてしっかりよく生きてきた

安らかにおまえは眼をつぶるがいい