米原万里『旅行者の朝食』を読む

 米原万里旅行者の朝食』(文春文庫)を読む。米原の描いた食べものに関するエッセイをまとめたもの。米原のエッセイや小説には外れがない。どれも傑作だ。

 この平凡なタイトルについて、ロシアの小咄が紹介される。

 

「日本の商社が「旅行者の朝食」を大量にわが国から買い付けるらしいぜ」

「まさか。あんなまずいもん、ロシア人以外で食える国民がいるのかね」

「いや、何でも、缶詰の中身じゃなくて、缶に使われているブリキの品質が結構上等だっていうらしんだ」

 

 ロシアには「旅行者の朝食」という名前の缶詰があり、非常にまずいので有名なのだという。しかし、社会主義時代のソ連では、生産を神聖視し、商業とくに販売促進努力を罪悪視する禁欲的な社会主義的美意識を映していて、この名前があるという。その味は「1日中野山を歩き回って、何も口にせず、空きっ腹のまま寝て、その翌朝に食べたら、もしかしたら美味しく感じるかもしれない」と。

 米原チェコプラハの学校に通っていたとき、同級生のロシア人のイーラがモスクワから土産に持ってきたお菓子「ハルヴァ」の美味しさが語られる。同じような名前でソ連中央アジアギリシャイスラム圏、東欧、スペイン、シチリア、インドなどで売られているお菓子と似てはいても全く違うことが情熱をこめて綴られる。一度でもよいから食べてみたいものだ。

 「ハイジが愛飲した山羊の乳」では『アルプスの少女ハイジ』が取り上げられる。日本人がみな知っているこの小説を、米原が通うプラハの小、中学校に来ていた5大陸50か国以上の子ども達が誰も知らなかった。

 ハイジの物語のなかでは山羊の乳がふんだんに出てくる。「こんな美味しいお乳、あたし飲んだことなかったわ」と感嘆の声をあげる。米原は、14歳の夏、両親に連れられてアルバニアの海岸で1カ月を過ごしたとき、初めて山羊の乳を飲んだ。

 

「なんだ、こりゃ!?」

 強烈な腋臭(わきが)みたいな臭いに鼻面を一撃された。

「山羊のお乳ですってよ」

 母に言われてたちまちハイジの物語を思い出し、「美味しいに違いない、美味しいはずだ」と懸命に思い込もうとするのだが、嗅覚と味覚は拒絶反応を起こしている。鼻をつまんで残りのミルクを飲み干した。

 

 私は子どものころ山羊の乳を飲んで育った。飼っていた山羊が死んでしまった後は、仕方なく隣の農家から牛の乳を分けてもらった。60年以上前、初めて牛乳を飲んだ時の感想は、なんて水っぽい乳なんだ! というものだった。まるで倍の水で薄めたような味だった。

 2,3年前、娘にホワイトデイで山羊の乳で作ったブルーチーズをプレゼントしたことがあった。娘は美味しかったと喜んでくれた。