昨日8月12日は中上健次の命日だった。中上は29年前、46歳の若さで亡くなった。生きていれば大江健三郎の次の世代の日本を代表する作家と言われたろう。12年前、仕事で新宮市へ行った折り、中上の墓を訪ねたのだった。
墓は小ぶりながら上品なものだった。線香を手向け写真を撮ったのだった。12年前のケータイのカメラは性能が悪く、精細な写真は撮れなかった。その12年前にアップした文章を再掲載する。
*
仕事で和歌山県新宮市に行った。仕事が終わって乗る予定の特急列車の発車時刻まで2時間あった。昨夜泊まったホテルでもらった新宮市の観光地図の一画に中上健次の墓と記された所があった。中上健次の墓があるならば行かないで済ますわけにはいかない。
墓地を示す地図はジャスコ(現在のイオン)の近くを示している。ホテルから徒歩で行く。道路を歩いている通行人は驚くほどまれで、自動車だけが走っている。ようやく老婦人に会い、大まかな方向を教わる。ジャスコの大きな駐車場の横から南谷共同墓地が始まっていた。途中の工場で何度も問い合わせるが誰も墓の場所を知らない。墓地はどこまでも続き、あたかも山一つを覆っているかのようだ。ようやく石材店を見つけ、ここでようやく詳しく教えてもらうことができた。線香とライターも入手できた。
教えられた坂道を登り、水道施設の横を左折すると中上健次の墓はすぐに見つかった。一つの区画に1メートルほどの墓石が据えられ、中上健次と彫られている。花が供えられ日本酒の瓶が置かれていた。線香に火をつけ墓前に供えた。
墓碑によれば中上健次は1946年8月2日に新宮に生まれ、1992年8月12日に亡くなっている。享年46歳。早すぎる死だった。中上は大江健三郎の次の世代の優れた作家だったし、もし長生きしたら間違いなく日本を代表する作家となっただろう。46歳での死はその優れた作家にとって紛れもなく早すぎる死だった。
新宮が中上健次を産み、中上健次が新宮を日本文学のひとつの聖地としたのだった。新宮は熊野神社と中上健次の生誕地として記憶されることだろう。