作品の成立は?

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袖壁

  もう25年ほど前になるが、いまでも印象的で記憶に残っている光景がある。営業に出ていて昼になったので会社へ帰ろうと駅に向かって歩いていた。神田にあった秋山画廊の近くだったと思う。一軒の民家の玄関脇の、袖壁というのだろうか、1メートル角くらいの小さなコンクリートかブロックの壁が取り壊されていた。取り壊されていたと言っても、その途中で昼になったらしく、工事が中断されて、壁はまだ半分ほど残っていた。残土というかバラスト=瓦礫というか、壁の破砕が丸く集められていた。ハツリに使ったハンマーや竹ぼうきが壁に立てかけられていた。その光景がハッとするほど魅力的に見えた。だからこんな風にまだ記憶に残っている。

 ハツリ職人は昼休みで中断し、現場を簡単に掃いて道具もまとめて中座した。職人が意識的に美しくまとめたとは思えない。そんな動機がない。あるいは半ば無意識に彼の美意識がまとめたのだろうか。

 あの光景が25年間も私を捉えている。美は作者に関係なく生まれるのか。見る者がそれを美と判断することによって美となり得るのか。いいや、この考え方に私は否定的だ。紹介した工事現場の美は私が発見したから美となったのではない。私の存在と無関係に美として存在したと思う。私が見つけなければ誰にも知られず消えてしまっただけだ。私は証人であっても美の創造者ではない。

 デュシャンのことを考える。デュシャンレディメイド、小便器、瓶乾燥器、自転車の車輪などは、特に美しくも意味があるわけでもない。美しくも意味もないものをデュシャンが「作品」だと定立したことに意味があるのだろう。私の工事現場は、デュシャンの価値観とは別で、意識的でない造形が美しいという点が重要なのだ。意識的でない造形という意味ではデュシャンと共通点があるかもしれない。だが美的でも有意味でもないありふれたものを「作品」として定立したデュシャンと、それを美的だとした私の工事現場とは全く違うと思う。

 工事現場のことについて補足すれば、それは人が造形したことに意味があるのではないか。つまりここで言いたいのは自然の造形物ではないことだ。人の手が加わっていること。人の手によって作られながら、主観的には美的・造形的な意図の有無が関係ないこと。まあ、美的・造形的な意図があれば、それは普通の美術作品なのだから、そのような意図がなく美的・造形的に成り立っていることがキモになるだろう。あるいは先に書いたように、ハツリ職人が先天的に美意識の持ち主であって、無意識に美を創造した可能性はあるのだが。

 整理してみよう。ある時私は工事が中断した現場を見て美を感じた。そこにあったのは、半ば壊された袖壁、立てかけられたハンマーと竹ぼうき、掃き寄せられた瓦礫、それらが作る光景が美しかった。

 街中でボテロの彫刻やイサム・ノグチの彫刻、ブランクーシの彫刻を見たとき、作家の意図には気づかない。最初に作品の美を感じるだろう。その時に必要なことは何か。それは秩序だと思う。普通でたらめに置かれた物体に美は感じない。何か秩序が感じられて初めて美が立ち現れるのではないか。秩序のない抽象作品には価値が感じられない。優れた作品は抽象作品であろうと秩序がある。秩序は必要条件であって十分条件ではないと付け加えなければならないが。

 作家の意図が作品を作る。普通はそう考える。ところが私の工事現場は、直接の作家の意図とは無関係のようだった。なぜそこに美を見たのか。ハツリ職人は無秩序ではなく、中断する工事現場を整理した。それが作家の創造する美に通じるものがあったと考えるべきなのだろう。

 作品の成立は? と題したが、結論は出ていない。まだ考え続けることにしよう。

※写真は「袖壁」の見本。私が言及した工事現場ではない。