東京駒場の東京大学駒場博物館で宇佐美圭司展「よみがえる画家」が開かれている(8月29日まで)。当初6月27日までの予定だったが、コロナ禍で一時閉館したため会期を延長している。
加治屋健司による『宇佐美圭司 よみがえる画家』(東京大学出版会)の発行を機に本展覧会が企画されたのであろう。展示されている作品点数は少なかったし、必ずしも満足できる内容ではなかった。
以前(2009年10月)、宇佐美圭司『20世紀絵画』(岩波新書)を紹介したことがあったが、ここにそれを再録する。
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南天子画廊で宇佐美圭司展を見たので、彼の著書「20世紀美術」(岩波新書)を取り出して3回目を読んだ。今なお教えられることが多く、また何度も読み返すだろう。
本書ではまずマチスを高く評価するところから始まる。1992年ニューヨーク近代美術館でマチス大回顧展が開かれた。それを見に行った宇佐美はあらためてマチスに惹かれる。同時期にグッゲンハイム美術館ではロシア構成主義の大展覧会が開かれており、そこで見たマレーヴィッチは、「社会主義リアリズムによって崩れていったというよりも、すでに自らの内に表現展開の終末をかかえもっていたと言った方がいいように思える」。ついでホイットニー・ミュージアムでジャン・ミッシェル・バスキアの回顧展を見る。
彼(バスキア)の絵はエネルギッシュな都会生活の落書きに満ちている。ドラッグからのがれようとして、ドラッグのなかで死んだ。彼の絵の基本はコラージュであるが、それは視覚的に組み立てられているというよりも触角的であり身体的であるというすばらしさがある。
けれどもそこには、西欧文化が築きあげてきた絵画の技術的蓄積が片鱗も見られない。
ついでマルセル・デュシャンの還元的情熱が紹介される。
(飛行機が)空を飛ぶという異常な体験を目のあたりにして、彼は「驚き」にとらえられたのである。(中略)その驚きがあまりに強烈であったため、彼は表現内容の問題ではなくそれを表現メディアの問題にすりかえてしまった。「絵画」という表現メディアは、ルネサンス以来のものとして公然とデュシャンの前に横たわっていたから、芸術表現の場でない所から彼の想像力の中心におそいかかってきた「驚き」に対して、もはや「絵画」では対処しえないという思いにかられたのであろう。
彼は飛行機を時代の新たな日常性として描くのではなく、その「驚き」に対処しえる何か別の芸術表現のありようを考えた。そして還元的情熱に点火されるのである。
デュシャンは「壜かけ」という作品を提示する。
1914年の「壜かけ」というレディ・メイド(既製品)の作品が、美意識の相対性をオブジェとして表現した記念碑的作品となった。デュシャンはそれを百貨店で買いもとめ、部屋の片隅に置いておいたという。
(中略)
レディ・メイドのような表現をなくしてしまった作品の出現は、人間の美意識が、そして表現活動がいわば折り返し点に来たことをものがたっていた。なぜなら還元しつくされ沈黙に到達した表現世界の向こう側には、もう人間の生と関わりあう場が予想され得ないからである。
いよいよ戦後アメリカの抽象表現が語られる。ジャクソン・ポロック、バーネット・ニューマン、マーク・ロスコ、クリフォード・スティール、モーリス・ルイスといったニューヨーク派だ。
近代絵画における還元的情熱は、文明の進歩や、進化という方向に、人間の表現力の名によって根底的に反省的機運をもたらした。しかるに20世紀後半を代表するに到るアメリカ現代美術は、はたしてその文化の力を継承したものであったであろうか。答えは否定的にならざるを得ない。アメリカ抽象表現主義は、抽象表現という運動の先端部分をさらに前に進め、その「新しさ」をヨーロッパからの名誉ある独立と考えようとした。
ヨーロッパの還元的情熱を、いわば還元的進化に置きかえるような文脈をつくってしまったと言えるのではないか。進化という考えは運動が示す場全体のあり方より、その先端部分のみにスポットをあてる。還元的情熱が還元する空間、色彩、テクスチャーといった表現の原材料を越えて向こうに行こうとしてももうそこにはなにもない。それが抽象表現として成立するなら、抽象表現を超える表現は、表現をこわす以外にない。
アメリカの抽象表現主義のトップは日本人には馴染みが薄いが、バーネット・ニューマンだという。代表作「崇高で英雄的人間」は2.4メートル×5メートルの大きさだ。
赤一色の平滑な画面で、5本の不規則な垂直線がそのカラーフィールド(単色の大きなスペース)をよぎっている。私は最初その画面に飲みこまれるようにして、この絵に強い印象を受けた。精神的で意志的な表現がここにはあると思えたのである。
しかしふと視点を変えてみれば、これは単純な絵だ。その単純さは、何かある作業の準備段階のようなものであろう。
宇佐美はさらに書く。「ニューマンには幸か不幸かそのカラーフィールドと垂直線の絵の前史に、貧弱なわずかの水彩画しかない。」
ニューマンは神ではなかったから、自ら赤い平滑な画面をつくったのである。垂直線はマスキングテープがつかわれることが多かったであろう。作業はほとんど神秘的なものではなく初歩の塗装工の技術に等しい。
そして日付絵画を描き続ける河原温も批判される。河原恩は黒地に白の活字体で「10 October 2009」とその日の日付だけを描いている。
ウォーター・デ・マリアの作品「ブロークン・km」は全部つなぐと1キロメートルになる真鍮製の棒を、一定の長さに切断して順序よく並べたもの。「その意味のなさ、理由のなさが強さだけを浮きたたせる」。
リチャード・セラは巨大な鉄のオブジェを作っている。「私が見たのは70トンもあるむくの鉄の立体で、2メートル角くらいの大きさだったろうか」。
クリストのラッピング(梱包)にも疑問が呈される。
フランク・ステラのストライプの作品も批判される。
キャンバスに絵の具を流し込んだだけのモーリス・ルイスは「絵画が何かの表現であることから物質そのものへと移行する」と評される。
20世紀後半アメリカから吹いた「サブライム(崇高)」や「強さ」を主張する美学が、100年後の美術館に、20世紀文明のゴミのようなアートの山をつくっていない保証はない。
アンディ・ウォーホールについても、
彼(ウォーホール)が私たちの時代を代表するアーティストだというようなデマゴーグには屈してはならない。それは「還元的情熱」の抜けがらのような作品であり、その行方を語るいかなる地平(ホリゾント)も持たない大衆文化的記号の羅列に過ぎない。その空っぽの内容が良しとされるここ何十年かのアメリカ現代絵画の文脈が彼をつくった。
と、手厳しい。しかしこのとおりだろう。
宇佐美はヨーロッパの抽象画家、ヴォルスについて肯定的に語る。
ヴォルス(1913ー1951)。彼は小さな水彩画によって今世紀の都会とそこに住む人間の感性やにおいを描いた。私はポロックのことを思う時、同時にいつもどこかでヴォルスを感じている。表現行為のスケールを取り去れば、両者には多くの共通部分があったと思う。
ヴォルスを思えば、その側にクレーがおり、デュブッフェや、ジャコメッティがいるという風に、20世紀を語る別の文脈がひらけるだろう。
次は宇佐美の「20世紀を語る別の文脈」をぜひ読んでみたい。
ここに引用した文章がもし難しかったら、それは豊かな具体例を省いて結論だけを拾ったせいだ。ぜひ本書を読んでほしい。
(再録、以上)
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宇佐美圭司「よみがえる画家」
2021年4月28日(水)―8月29日(日)
10:00-18:00(火曜日休館)
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東京都目黒区駒場3-8-1
電話03-5454-6139
http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/
※オンラインでの日時指定予約が必要