山梨俊夫の美人論

 以前にも紹介したが、山梨俊夫の『絵画逍遥』(水声社)が素晴らしい。今回はその中の美人論を引く。

 

 美しい人を見て、その美貌を描こうと思い立つ。あるいは、風が渡り樹木を煌めかせる光の晴れやかな自然に身を浸し、精神を解放させるその光景を描こうとする。艶やかで瑞々しい桃のひとつを、その確かな重みと瑞々しさそのままに描き出そうとする。描く動機にはそういう類の意図も宿っている。しかし画家はそのままでは絵にならないことを知悉している。その思いをもって対象を見つめ始める。すると、最初の動機は凝視によってすぐに裏切られる。美貌は見つめることで解体される。人の顔の美醜は、見た目だけで成り立っているのではなく、他人の評判や時代の嗜好を始めとする数知れぬ情報、情愛や思い入れといった個人的な感情から出来上がった壊れやすい基準に依って、それが外貌の表面を先入主のように覆って判断される。凝視は表面を覆った美醜を突き破る。画家の眼差しは、そういう先入主を貫き透過して、美醜の奥へと伸びていく。そこに何が在るのか。外面的な価値が剝ぎ取られた後に現れるのは、日常の生存に係わる見ることの体系から離れた物の表情であり、ただそこに在るという物の存在から発せられるなまの視覚上の発語である。それはまだ何かの価値で装われてはいない。物質の性状が剝き出しで現われ、色はそれ自体で発現する。対象の存在を損なわれていないかたちで表わすこと、しかしそれは画家の務めではない。ただ画家が凝視の眼差しをもって物と対峙するとき、一度は物のそういう出現に出会うことになる。そして物の構造と表情から浮かび出す存在の様態が画家の思考の原料となって、画家はそこから絵画へと向かっていく。絵画に到る道は、画家それぞれが個別的に切り開き踏み固めなければならない。(「見ることの特権」p.88-89)

 

 山梨は、これに続けてセザンヌに言及する。しかし、もうそれは省くことにする。山梨といえば、『現代絵画入門』(中公新書)が素晴らしかった。

https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/20130110/1357744431

 

 山梨俊夫『絵画逍遥』(水声社

https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/2020/06/30/222614

 

 

 

絵画逍遥

絵画逍遥