黒澤明『蝦蟇の油』(岩波同時代ライブラリー)を読む。副題が「自伝のようなもの」とあり、1978年に『週刊読売』に連載したもの。黒澤68歳のときの自伝となる。
黒澤は1歳のときの記憶を持っていた。洗面器のお湯につかっていた時、洗面器をゆすっていてひっくり返った。そんな小さな時から子供時代、青年期、P.C.L(東宝)に入社してからと、実に詳しく書き綴られる。日記など書いていないのに優れた記憶力だ。
兄に連れられて幼い頃から映画を見ていた。9歳から19歳にかけてみた映画の一覧表が載っている。『カリガリ博士』や『散り行く花』という名作を9歳のとき見ている。その後も『キッド』や『幌馬車』などを13歳までに見ている。さすが!
だが、黒澤を導いた優秀な兄は自殺する。映画の世界で評論や映画解説をしていた兄だった。後に助監督をしていた時、徳川無声から、「君は、兄さんとそっくりだな。でも、兄さんはネガで君はポジだね」と言われた。
P.C.Lという映画会社(のちに東宝に発展する)に助監督として入った黒澤は山本嘉次郎監督に可愛がられる。「山さんこそ、最良の師であった」と黒澤は書く。
昭和18年、黒澤は『姿三四郎』で初めて監督になる。黒澤が新聞広告で見つけ、即座に映画にしたいと考え、出版されてすぐ読んで企画部長に映画化権をとるよう頼み、自分で脚本を書いた。
『静かなる決闘』のクライマックスを撮ったとき、主演の三船敏郎の眼から吹き出すように涙がこぼれ落ちだした。黒澤の傍の2台のライトがガタガタ鳴り出した。興奮した黒澤の身体が揮えて、ライトを震わせていた。キャメラマンもファインダーを覗いてキャメラを操作しているのに、ポロポロ泣いていた。
本書の最後に大映で撮影した『羅生門』について語られる。大映の首脳部は、内容が難解である、題名に魅力がないと、撮影の仕事に入るのを渋っていた。撮影が始まる前も大映がつけた助監督が3人、脚本が分からないから説明してもらいたいと言ってきた。黒澤が説明すると2人は納得したが、チーフ助監督は納得がいかないようだった。
『羅生門』が完成した後、大映の社長は全くわけがわからんと憤慨して、製作を推進した重役やプロデューサーを左遷した。ところが『羅生門』がヴェニス映画祭でグランプリを受賞した。日本の映画で海外の映画祭で受賞した最初の作品となった。
残念ながら黒澤の自伝はここで終わっている。せめて『七人の侍』の制作エピソードまで書いてほしかった。本書を素晴らしく楽しんで読んだ。唯一の不満は、ここまでで終わっていることだ。