大塚信一『長谷川利行の絵』を読む

 大塚信一『長谷川利行の絵』(作品社)を読む。長谷川利行の生涯を辿りその作品を紹介している。利行についての文献を読み込み、利行の絵の由来から最後まで丹念に分析している。読み終わって長谷川利行についてよく分かった気がした。

 カラー口絵に3図版、そして最初に9ページを充てて小さな白黒図版を35点載せている。小さな白黒図版はとても見づらいが、まあ仕方ないのだろう。2年前の府中市美術館の長谷川利行展の図録を横に置いて見れば良いのだろう。

 大塚は、長年利行と行動を共にした矢野文夫の見方を紹介する。

 利行の芸術は、もともと東洋的・文人的気質の強い絵であり、日本洋画の官学(アカデミズム)的質感や量感とは全く異質の技法である。利行は、常に塗抹ではなく線で描く東洋的手法に終始している。日本洋画の流れの中で、利行が異質の感を抱かせるのは、この文人画的素質と技法のためである。カンバス地も透けてみえる白やグリ系の薄色の下塗りを先ず施し、そのうえに速筆で一気に描きあげてゆく。その線描はフレキシブルであり、鋭敏な神経の通った象徴的な東洋画の「線」である。それは浦上玉堂の、点や線を想起させるものがある。

 大塚は利行を高く評価する。画壇の大家たちからは嫌われたが、若い画家たちからの尊敬を集めた。利行は1940年に三河島救世軍宿泊所に移り、5月に宿泊所近くの路上で倒れ、行路病者として病院に収容されたが、10月12日知友の看取りもなく亡くなった。

 戦中の1943年、利行に影響を受けた若い画家たち、靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本峻介の8人が、銀座の日本楽器画廊で第1回の新人画会展を開いた。彼らの多くが利行の影響を受けた画家だと大塚は強調する。

 その後、湯島の羽黒洞の創立者木村東介によって利行が売り出され、現在では10号で2千万円の評価だと聞く。きわめて高い評価を受けていると言ってよいだろう。

 さて、わが師山本弘は利行が好きで、私が初めて会った時も分厚い長谷川利行画集を傍に置いていた。友人である豊橋に住む山本鉄男からもらったと言っていた。たしかに山本弘は利行の影響が強い絵を描いていた。利行のことは最後まで好きだったと思う。だが山本は利行より40歳若い。本格的に絵を描き始めたのは戦後だった。利行の影響から始めてやがて山本は遠いところまで突き抜けていった。青は藍より出でて藍より青し、である。

 改めて利行の絵を見て見れば、早描きの弊害は顕著に見て取れる。絵具が乾かないうちに描き急ぐので濁ってしまう。即興でじっくり構成を考えていない。画面が汚い。あるいは山本は利行を他山の石としたのだろうか。改めてわが師の天才を確信したのだった。

 

 

長谷川利行の絵: 芸術家と時代

長谷川利行の絵: 芸術家と時代