吉田喜重監督作品『炎と女』を見る

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 シネマヴェーラ渋谷吉田喜重監督作品『炎と女』を見る。1967年現代映画社制作、岡田茉莉子主演。監督の吉田喜重は東大仏文科出身、卒業論文サルトルでサルトリアンだった。ここまでは大江健三郎と同じ経歴だったが、大江が四国の森の中の土俗的な村を作品の舞台に選んだのに対して、都会的、現代的な風俗に拘っていたように見える。

 『炎と女』は当時話題だった人工授精をテーマに、男と女、家族、親子の紐帯を描いている。だが吉田にとってどこまでが切実なテーマだったのか。どこか図式的、絵空事に見えてしまう。土俗的な舞台を選んだ大江の豊かな物語と異なって、都会的な吉田の選んだ舞台はどこにも生活の匂いがしない。1歳ちょっとの幼児を連れて軽井沢の別荘に逃避した岡田茉莉子、子どもの食事はどうするのか。劇作のような数人のドラマで組み立てられている吉田の映画では、端役が存在しないかのようだ。幼児は泣かないしむずからない。他の作品でも端役に相当する若者たちはほとんどステレオタイプの書割のようにしか描かれない。

 奥村祐治の撮影する映像は見事だが、コマーシャルフィルム出身の大林宣彦同様、静止画的構図の美しさに拘り、動きが重視される映画的映像としては疑問が残る。吉田のラブシーンの下手さは致命的だ。まさか私生活でもこんなに下手だったのだろうか。

 この時岡田茉莉子34歳、顔は天下1、2の美しさなのに、それが十分に表現されたとは思えない。小川真由美の方が魅力的に描かれている。日下武史という私の好きな男優は良かったけれど、総じて台本に難があるように思う。

 この映画を見たのは53年前の封切時だった。田舎の映画館で見て、上映が終わったあと映画館に頼んでポスターをもらった。そのポスターはまだどこかに仕舞ってあるはずだ。

 音楽は松村禎三で現代音楽的な曲を付けている。この映画を松村がある種図式的で人工的な物語だと判断したせいだろう。吉田喜重はヌーベルバーグのアラン・レネやアントニオーニに傾倒していたから人工的な舞台のように作りたかったのかもしれない。だが、それは成功していないと言わざるを得ないのだった。