井上ひさし『組曲虐殺』(集英社)を読む。特高によって虐殺された小林多喜二を描いた戯曲。井上は『少年口伝隊一九四五』のように原爆投下後の悲惨な広島を、悲惨さを避けないで見事に作品化した優れた批判的な作品が多い。だから期待して読んだ。
小林多喜二の拷問による虐殺もやはり悲惨なものだ。遺体に加えられた拷問の跡が直後に撮られた写真によって誰でも見ることができる。そんな事件を井上はどのように芝居にするのか。芝居は客が大金を払って見に来るものだ。悲惨な事件をそのまま作品化すれば客足は遠のくだろう。
井上は小林担当の特高刑事2人を道化役にする。ひとりなどは自分が書いた作品の評価を小林に求めるという設定にしている。そのほか、小林の妻、母、妹、恋人が喜劇っぽい役割を持たせられている。井上らしく悲惨な事件を終始喜劇っぽく書いている。
しかし、多喜二虐殺は歴史の事実だ。だからエピローグで多喜二担当の特高刑事2人とは別の特別チームが逮捕して虐殺したのだと、特高刑事のひとりに語らせる。二度と小説が書けないように右の人差し指を切り落とし、体の20箇所をキリで刺したと。
全般にわたって小林多喜二を優れた作家だという設定で戯曲が書かれている。特高刑事たちの認識も同じだ。そこに無理があるのではないか。多喜二はプロレタリア作家の中では優れていたかもしれない。しかし、無限定に優れた作家かと言えば、むしろ二流の作家ではなかったか。『蟹工船』を読んだことがあるが、船がとても大きく、工員たちが大勢乗り込んでいたということさえも書けていなかった。小説として優れたものではなかった。その多喜二を国際的にも優れた作家だと皆で称揚するので違和感を禁じえなかった。井上の芝居としてはむしろ凡作の部類ではないだろうか。
もっとも私は戯曲を読んだだけだ。舞台を見ればまた違った感想かもしれないが。