洲之内徹『絵のなかの散歩』(新潮文庫)を読む。昔1974年から14年間『芸術新潮』に連載された「気まぐれ美術館」をまとめたもの。『絵のなかの散歩』『気まぐれ美術館』『帰りたい風景』『セザンヌの塗り残し』『人魚を見た人』『さらば気まぐれ美術館』と6冊が刊行され、最初の3冊が新潮文庫になった。
『芸術新潮』連載中は雑誌の売れ行きにも影響したほど人気エッセイだった。経営する現代画廊での取扱い作家についてエピソードを交えて面白く語っている。洲之内のファンは多く、サラリーマンコレクターにとって理想の目利きのように慕われていた。現在宮城県美術館には死後遺族から寄贈された洲之内コレクションが残されている。
一時期コレクターたちからカリスマのように慕われた洲之内だったが、文庫化された後は忘れられていったのか、売れ行きも今イチだったようで、3冊のみが刊行されて今では絶版になっている。
久しぶりに読み直せばやはり大変面白い。美術を語ったエッセイとしては最良の一つだろう。下手な美術評論家など足元にも及ばない。ただ、純粋な美術評論として読めば、不満も多いのではないか。
司修は『戦争と美術』(岩波新書)で次のように書いている。
洲之内の絵を見きわめる眼の鋭さは彼の体質から要求される美的感覚にしたがってのことであろうと思います。そこには洲之内の転向問題が呼び覚まされ、転向による苦しみが絵画に関係することで癒やされ、埋もれた画家の発掘に繋がったのだと思います。しかし絵画を見る良質な眼のうら側に、侵略行為の手先として生きた洲之内が存在することを抜きに彼の美術批評を読むわけにはいかないのです。
針生一郎は洲之内のことを「落穂拾い」だと言っていたっけ。でも、もう一度洲之内を読み直してみたいと思った。