横内謙介戯曲集『愚者には見えないラ・マンチャの王様の裸』を読む

 横内謙介戯曲集『愚者には見えないラ・マンチャの王様の裸』(テアトロ)を読む。先月、信濃町文学座アトリエの文学座附属演劇研究所研修科発表会でこの芝居を見た。演出が小林勝也だった。
 芝居はアンデルセンの『はだかの王様』やセルバンテスの『ドン・キホーテ』、さらにセルバンテスを翻案したミュージカル『ラ・マンチャの男』を換骨奪胎し、現代の荒れた学校をも取り込んだ複雑な構成になっている。この戯曲は1992年に岸田國士戯曲賞を受賞している。
 芝居を見終わって何か釈然としないものが残った。裸の王様が子供に、王様は裸だと笑われて精神的に大きなダメージを受け精神病院に引きこもってしまう。夜な夜な道化とともに無人の荒野をさまよって歩く。そこでドン・キホーテを探す従者のサンチョ・パンサに出会う。サンチョを連れて王様と道化と3人が宿で飲み食いしていて、宿に滞在している旅芸人一家と知り合う。旅芸人は裸の王様の事件以来人びとが芸に見向きもしなくなって落ちぶれ、子供たちが宿のパンをくすねて売ったりしている。それを宿の主人の奥さんから厳しく追及されて、滞納している宿賃とともに期日までに支払えなければ娘を女郎屋に売れと迫られる。王様はサンチョから旅芸人たちを救うことを示唆され、ドン・キホーテになって悪と戦おうとするが、旅芸人の娘が現れて王様に「キチガイ」と叫ぶ。娘がお金を取り出して淫売をやって稼いだという。娘は宿の主人はホモだと市場で噂していて、知らないのは主人の奥さんだけだとばらす。主人は娘にここで裸踊りをして稼げと迫ると、王様が自分は本当は裸の王様だった、自分が裸になると宣言しストリップショーを始める。その時中川恭子という女性が現れ、王様に「先生」と呼びかける。10年前、王様は実は中川の中学校の担任の先生だった。荒れた学校を先生は立ち直らせようとした。しかし生徒たちの暴力はやまず、先生は孤立する。その時秘かに中川恭子が先生の味方をして、二人の文通が始まった。恋の言葉さえ綴られた手紙があるとき廊下に貼りだされ、先生は生徒たちの物笑いにさらされる。笑う女生徒を払い除けようとしたとき、女生徒が倒れ込んでガラスの破片で顔を切る。しかし、女生徒中川恭子はもう傷は癒えたから先生を許すという。むしろ許してほしいのは先生の夢を裏切った自分たちだと。王様が許されたとおもったとき、道化がガラスの破片で切った傷は、実は先生が護身のためにいつも持ち歩いていたナイフで切ったのだったと暴く。その道化を追い払った王様に中川恭子が私たちからと言って箱を渡す。先生に似合うポロシャツとコットンパンツだと言って。王様にはそれが見えない。見えないながらも中川恭子に促されてシャツとパンツを着る。それを見て彼女を始め一同が王様は裸だと笑う。
 舞台が変わって王様と道化がベッドに寝ている。見舞客が訪ねてくるが、客は道化に向かって自分は昔先生の生徒だった者だと自己紹介し、中川恭子と2年前に結婚したという。彼女が最近妊娠し、先生の夢を見るというので訪ねてきたのだと。顔の傷はもうほとんど目立たないとも。客が帰ったあと、王様は道化に、影法師だったのはお前でなく、この俺のようだったなと驚く。そして二人してまた、見えなかったあの服を探しに行こうと提案する。
 真実だと思ったことが次々に覆されていく。いつまでも覆されていって、まるで覆すことが目的であるかのように、あたかもそれを楽しむことが芝居のテーマであるかのように思われる。しかしオチがないのではないか。真実が次々と覆されていく映画として、佐藤祐一の『キサラギ』という傑作があった。あれだったら納得がいくのに、本作は最後まで欲求不満が解消されなかった。
 読み終わって、芝居を見て釈然としなかったのは演出家の問題じゃないかと思ったことが違っていたと分かった。戯曲そのものが未整理で問題があるのだ。どうしてこんな戯曲に岸田國士戯曲賞が与えられたのか、それが謎となって残った。