久保田晃弘+畠中実 編『メディア・アート原論』を読む

 久保田晃弘+畠中実 編『メディア・アート原論』(フィルムアート社)を読む。メディア・アートの定義は難しいという。一般的にはコンピュータをはじめとする同時代のメディア・テクノロジーを使用した美術作品を総称するものとして使用されているという。

 メディア・アートというジャンルが、現在その名称によって指示されるような作品とともに顕在化するのは、80年代末ころからである。70年代のヴィデオ・アートが、80年代以降、ヴィデオやコンピュータ・グラフィックスの隆盛、パーソナル・コンピュータの普及などを背景に、メディア・アートへと移行していくことになる。

 そして最近に至る様々な技術を紹介し、2008年から2018年までの10年間のメディア・アートを一言で言うとすれば、「ポストインターネット」になるだろうという。

畠中  一方でポストインターネットというのは『マトリックス』的な世界がもう日常なんだというような感覚ですよね。サイバースペースとか、新しい概念が提唱されると、次にそれらがイメージ化されてくる過程があって、イメージ化されてしまうと何となく「ああ、そういうものか」ということで人々に共有されていく。(中略)
久保田  そうなんです。だから個人的にはいまや『ブレードランナー』も『スター・ウォーズ』も新作だろうがなかろうが、あの世界観が、まったくグッとこないものになってしまいました。
(……)
久保田  SFと、技術をギミックに使ったファンタジーを区別しておかないといけないですね。だから僕にとってのSFとは、スタニスワフ・レムの『ソラリス』やフィリップ・K・ディックの『ヴァリス』、最近ではテッド・チャンの『あなたの人生の物語』のような数少ない諸作品です。しかも、映画化されたものでなく、あくまで原作です。映画化されたSFで原作を超えているものは、ほとんどないのではないでしょうか。

 それに対して畠中は、『ブレードランナー』とその原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を比べると、60年代に書かれたという時代感覚を、映画は完全にアップデートされていて80年代のものになっている。『2001年宇宙の旅』も、そこに出てくるコントロールパネルがiPadを先取りしたという見方ができると反論する。

久保田  だとすれば、今度はそれを2020年のものにアップデートしなければいけません。そのためには原作にあった普遍性に立ち返ることが必要とされます。例えば『ソラリス』で言えば「絶対的にわかりあえない他者」というテーマは、今の人工知能に対しても重要です。『ソラリス』の海とAIはすごく似ています。「他者とは結局のところわかりあえない」という普遍性がそこにあります。
畠中  そのくせ人の気持ちを読んで「これでしょう」と言ってみせるので、Googleみたいなものですね。
久保田  はい、AIが自律したらまず『ソラリス』の海のようなことをやると思います。人間の頭の中から得たイメージの意味がわからないから、とりあえずそのまま物真似して、おうむ返しで相手に提示する。

 私にはこのあたりが一番面白かった。いままで新しいメディアによる美術はたいていつまらなかった。1969年に代々木のオリンピック体育館で大々的に行われた「クロストーク/インターメディア」もド派手なだけで有効なものは何も生まなかったという印象がある。山口勝弘のヴィトリーヌも古びてしまったし、ナム・ジュン・パイクのヴィデオ・アートも器械が古びてしまった。Minimo++はその後どうなったのだろう。