『フランシス・ベイコン・インタビュー』を読む

 『フランシス・ベイコン・インタビュー』(ちくま学芸文庫)を読む。デイヴィッド・シルヴェスターが9回にわたってインタヴューしたもの。以前筑摩書房より『肉への慈悲 フランシス・ベイコン・インタビュー』として出版されたものの文庫化。1962年から1984年まで何度もインタヴューしたものを構成している。

D・S(デイヴィッド・シルヴェスター)――写実的な絵(イラストレイション)とそうでないものの違いを定義してもらえませんか。
F・B(フランシス・ベイコン)――思うに、写実的な絵(イラストレイション)は、描かれているフォルムが何なのかを知性を通して直接的に伝えますが、一方、非写実的な絵はまず感覚に作用し、それからゆっくりじわじわと現実に戻っていくのです。どうしてそうなるのかは、わかりません。現実自体が非常に曖昧であり、姿かたちも実はたいへん曖昧なのだ、ということに関係があるのかもしれません。だから、非写実的で曖昧な記録のほうが現実に近づけるのでしょう。

F・B――(……)抽象表現主義で行なわれたことはすべてレンブラントがやっています。しかし、レンブラントの絵は非合理なだけでなく、事実を記録しようとする試みでもあったので、なおさら私にとって刺激的で深みがあるのです。私が抽象画を好きになれない、あるいは抽象画に興味を持てない理由のひとつは、絵画はこのようにふたつの側面をもつものなのに、抽象画は審美的な要素しかもっていないからです。いつもひとつのレベルにとどまっていて、パターンや形式の美しさにしか目を向けないのです。ほとんどの人々、とりわけ画家の内面には、コントロールされていない感情の領域が大きく広がっているのですが、抽象画家は一面的な絵でそうした感情をすべて表現できると信じているのでしょう。しかし、私が思うには、そのような表現は弱すぎてなにも伝えられないのです。偉大な芸術は非常に整っていると思います。その秩序の中にきわめて直感的で偶発的なものがあっても、それも秩序を求め現実をより強烈に神経組織に伝えたいという欲望から生じているのです。すでに偉大な画家が存在したのに、どうして人はさらになにかを創ろうとするのでしょう。その理由はただ、偉大な画家の業績によって、世代ごとに直感が変化しているからです。そして直感が変われば、作品を明確に、より強烈に作りなおす方法について、新しい考え方が生まれます。芸術は記録であり、なにかを伝えるものだと思います。抽象画には伝えるものがなく、あるのは画家の美意識と乏しい感性だけです。抽象画には緊張感がまったくないのです。

F・B――(……)私たちはルネサンスであれ、19世紀の芸術であれ、過去のものをずっと模倣していることに耐えられません。新しいものを求めるのです。それは写実的なリアリズムではなく、まったく恣意的なものにリアリティ―を閉じ込める新しい方法を本当の意味で創り出すことによって生まれるリアリズムです。
D・S――まったく恣意的、あるいはまったく作為的でありながらリアルな作品ですか。
F・B――そうですね、さっきは恣意的と言いましたけど、作為的と言ったほうがいいでしょう。
D・S――恣意的でも間違いではないでしょうけど、本質的に、作品が力をもつのは、思いがけないことでありながら必然的だと思える場合だと考えたものですから。この点について、どう思いますか。
F・B――賛成です。いろいろな意味で、その到達点に最も近づいたのはマルセル・デュシャンだと思います。彼の「大ガラス」は、抽象とリアリズムという問題を極限まで突きつめた作品です。
D・S――ピカソよりも、ですか。
F・B――たぶん、そうでしょう。とりわけ、解釈を受け付けないという点で群を抜いています。

 300ページあるが、用紙が厚めなのでもっと厚くみえる。実はあまりベイコンが好きではないので、参考になる部分は少なかった。ベイコンファンにはたまらないかもしれないが。


フランシス・ベイコン・インタヴュー (ちくま学芸文庫)

フランシス・ベイコン・インタヴュー (ちくま学芸文庫)