橋爪大三郎『性愛論』を読んで

 橋爪大三郎『性愛論』(河出文庫)を読む。これが大変難しくて、読み終わるのに普通の倍の時間がかかってしまった。でもおもしろかった。本書は1980年前後に書かれた論文をもとにしている。橋爪30代前半ころの仕事だ。その頃橋爪はこれらの論文をトレーシングペーパーに鉛筆で書き、それを青焼きにして複数作成し、「頒布会」という論文の配布システムを作って、仲間や先輩たちに配布していたという。論文が難解なのはそれと関係があるらしい。配布する紙の枚数を節約するためトレース紙1枚に3,000字ほど詰め込む。途中まで書いたものを最初から書き直すのは嫌だから、原則、書いたまま。消しゴムで消して書き直してもせいぜい数行で、頭から最後まで一発勝負の書いたなりだったという。あらためてそれを単行本にまとめるとき、最初の論文をほとんど書き直さなかった。
 橋爪は序章で本書について、「ひとはなぜひとを愛するかという永遠の課題に、社会(学)という方法を借りて、可能なかぎり答えようとする試み(のひとつ)だ〜」と書く。
 最初に「猥褻」について分析する。「猥褻」という観念は「明治天皇制の権力のある画策のなかで生まれたものだった」。この観念の最表層は、刑法の具体的な禁令のかたちをとっている。そうした表層からこの観念の芯部に向かって下降していくと、「その芯部には、権力の恣意的な画策と無縁な、固有の力学の所産としての猥褻現象をみつけることができるはずだ。/このような普遍的な準位に立てられた猥褻の概念を、その最表層にある「猥褻」と区別して、単に「ワイセツ」と表記することにしよう」。

 ワイセツ現象は、(社会的)文脈に依存している。この(社会的)文脈は、性愛行為やその集積である性愛関係が、非性愛的な社会関係に囲繞され、取り囲まれるところに発している。ワイセツを見出す視点は、必ずこの非性愛的な社会関係の側にあり、非性愛的な状況に置かれた身体(たとえば、裁判官やPTAの父母たちや通りがかりの通行人や)から発している。
 ワイセツ現象は、文脈の取り違え、すなわち、性愛領域の事象を公然領域(非性愛領域)の側へと取り出すこと、によって成立している。

……性愛領域(性愛行為の生起する状況)が、それ以外の社会領域から隔てられているというこの基本公理を、性愛の分離公理とよぶことにしよう。この分離の線分は、不特定の人びとが行き交う公然の場面(道路や広場や仕事場や……)から性愛領域を隔てているし、家族の内部では夫婦をそれ以外の人びとから隔てている。要するに、性愛行為の当事者をそれ以外の人びとから隔てている。
 ワイセツ現象は、その根源にさかのぼれば、この分離と同起源(メダルのおもて裏)である。分離の線分の外側からは、性愛行為(の成分)はワイセツ(価値なきもの)とみえ、線分の内側では、同じ性愛行為(の成分)が互いにとって価値あるものとなっているのだ。

 以上は「第1章 猥褻論」であるが、第3章の冒頭でこれを要約して、

……性愛表現が、本来と異なる文脈(人びとの視線のもと)におかれた場合に、ワイセツとみなされることをみた。このように性愛領域と公然領域とが分離している点(性愛の分離公理)が、人間社会の特徴であった。

 と書いている。
 「第4章 性愛倫理」では、初期キリスト教団の婚姻に遡って語られる。ついで中世キリスト教の性愛感、ピューリタンの性愛倫理、近代の古典的な性愛感と純潔観念、性愛技法の過剰、性/愛の分解、と続く。この辺りはおもしろい。その「性/愛の分解」では、

 ジャーナリズムが「性の解放」とよびならわしている性愛倫理の変質が生じたのは、1960年代であると思われる。わが国の最も浅薄な理解は、これをポルノ解禁か、せいぜいのところ婚前交渉や同棲の是認ぐらいにしか受け止めなかったが、実にこれは恋愛の形而上学が解体するという、欧米社会の全体を覆いつくす巨大な変動の別名なのである。しばしば「新道徳」や「オーガズム革命」とも言われるこの変動を、われわれは”性/愛の分解”とよぶことにしよう。

 本書には2つの解説がついていて、上野千鶴子大澤真幸の2人が書いている。上野はジェンダー論の方向から本書にきわめて批判的である。おそらく編集部は最初上野に解説を頼んだところ、あまりにも批判的だったので、大澤に頼みなおしたのではないか。大澤が書いている。

……本書に文句をつけたり、批判したりするだけならば、そう難しくはないかもしれない。しかし、本書に匹敵する包括的な代替案を提起しようとすれば、かなりの知識と、それ以上に――マルクスのことばを使えば――強靭な「抽象力」(理論的想像力)が必要になる。

 と。


性愛論 (河出文庫)

性愛論 (河出文庫)