片山杜秀『クラシックの核心』を読む

 片山杜秀『クラシックの核心』(河出書房新社)を読む。バッハ、モーツァルトショパンワーグナーマーラーフルトヴェングラーカラヤンカルロス・クライバーグレン・グールドの9人の音楽家を取り上げている。雑誌『文藝別冊』の特集に掲載したもの。読み進めながらどこかに既読感があった。調べたら1年半前に読んでいて、しかもこのブログに紹介していた。情けない私の頭!
 しかし何度読んでもおもしろい。バッハの時代、音楽の中心はイタリアとフランスだった。華やかなオペラやコンチェルトが作られ、「音楽は複雑巧緻な主旋律を展開する主役と、比較的単純なリズミックで和声的な伴奏部を担う脇役に分化してゆく。多声部の均衡ある民主的発展というのは流行らなくなってくる」。

 バッハはドイツの東の方の教会や宮廷で、オペラを頼まれるような環境もないところで仕事を続けたせいで、そんな時代から取り残されてしまったのでしょう。前時代の課題に黙々と取り組み続け、ほかの作曲家が興味を失いつつあったフーガやカノンをマンモスのように発展させてしまった。《音楽の捧げ物》が《フーガの技法》ができてしまった。バッハはとても反時代的な巨匠だったのです。だからブルジョワのわがままがまかり通ってみんなで一緒にということが後景に引っ込んだ時代には忘れ去られてしまいました。メンデルスゾーンが引っ張り出して、以後は偉い人になったけれど、ほんとうに大勢がバッハを愛するようになったのは20世紀以後ではないでしょうか。平等や民主や均衡が大切だということになった時代にこそ、バッハは相応しいのです。

 ショパンはオペラ好きだった。ピアノで歌う。そのことにこだわりぬいた。ショパンベル・カントをピアノに移そうと思った。「声」をピアノで出したいと思った。ツェルニーやリストのように10本の指を鍛錬して均等にメカニックに動かすことを追求するのではなく、反対にショパンは、小指は小指、薬指は薬指というふうに、強かったり弱かったりの指の力や長さのムラを演奏に積極的に反映させることを考えた。歌手が全身で歌うように、ピアニストも腕を、手全体を、ひいては全身を使って、指の力のムラを打鍵に反映させて声のムラに通じる音の強弱のムラを作り出そうとした。声帯を手首に、口のかたちを指の動きになぞらえて、声を出すように手を動かすということを考えた。そして成功した。
 ショパン夜想曲第20番嬰ハ短調 遺作という曲がある。私はアシュケナージで聴いているが、ナタン・ミルシテインがバイオリンとピアノに編曲したものがある。バイオリニストのチョン・キョンファが演奏するCDを持っていたが、これがとても良かった。ショパンが「声」にこだわっていたのなら、確かにバイオリンはより向いているのかもしれない。
 片山の語るクラシック論はとてもおもしろい。さて、片山の書く政治思想史とどっちがおもしろいのだろう。悩んでしまって結論を出すことができない。