加藤耕一『時がつくる建築』を読む

 加藤耕一『時がつくる建築』(東京大学出版会)を読む。副題が「リノベーションの西洋建築史」とある。本書について、松原隆一郎毎日新聞の書評欄で紹介している(6月18日)。それを要約しつつ簡単に紹介する。
 著者は西洋建築史を古代までさかのぼり、再利用、再開発、修復・保存の3つがどのような順序と経緯で現れたのか検討を加える。まず、既存建物を改変しながら再利用・転用するリノベーションは、古代期末期(4〜8世紀)から19世紀まで当たり前のように繰り返されてきた。円形劇場が軍事施設へ、神殿がキリスト教の聖堂へ、フランス革命後の教会財産が監獄や兵舎に転用された。
 破壊を伴う再開発は、16世紀に起源をもつ。「古代を発見」した中世では、ゴシック様式が「野蛮」で「悪趣味」とされ、古典主義に建て替えられる。面白いのはダヴィッドによるナポレオン1世戴冠式の絵を挙げて、そのあたりのことを解説しているところだ。ルーヴルに展示されているこの絵は高さ5メートル以上、幅も10メートル近くある。ナポレオンが皇妃ジョゼフィーヌに冠を授けている。ここはパリのノートル=ダム大聖堂だが、パリ大聖堂は初期ゴシック建築の傑作だという。ところがこの絵ではゴシック建築の特徴を示すものは何ひとつ描かれていない。ゴシックが野蛮な形式だとされて、王室主任建築家コットが、内陣を大理石パネルを使ってすっかり覆い隠し、ゴシック的な内陣をルネサンス的な内陣へと変貌させたのだ。

 ロベール・ド・コットは、赤色と白色の大理石の羽目板を用いて、ゴシックの円柱を覆って角柱とし、ゴシックの先頭アーチを内側から覆って半円アーチとした。このような強引な改変がなされたにもかかわらず、その柱とアーチのプロポーションはじつに美しく、その手腕は見事というほかない。
 しかしたたえるべきはコットばかりではない。コットが大理石の羽目板で覆ったのは、内陣の大アーケードと呼ばれる一層目だけであった。したがって、上部に目を向けるとゴシックのデザインが露見してしまう。(中略)
 しかしダヴィッドは、巧妙に空間をトリミングし、上部の不自然な部分を画面にいっさい登場させなかった。彼の絵のなかに、建築的な不自然さはまったく存在しない。

 その後ヴィクトル・ユゴーが『ノートル=ダム・ド・パリ』を書いて、「保護」の建築感が生まれる。文豪は、聖堂への干渉(破壊)こそが野蛮と呼ばれるべきと訴えたのだ。しかし、建築は連続する時間のなかで変化する。どの時点を理想として「修復」すれば「保護」したことになるのか不明だ。
 かくして再利用的建築感が再浮上、現在のリノベーション・ブームに繋がっていく。
 ユゴーゴシック建築を再評価させたことにより、「ゴシック」は「古典主義」と同列の、高等芸術に高められることになった。古典主義様式とゴシック様式とは、このとき、西洋の二大建築様式になったのだと。
 地味な内容の本ではあるが、意外におもしろかった。再利用、再開発、修復・保存にこのような大きな意味があることを初めて気づかせてくれた。良い本を読んだと思う。
 さて、本書の内容に直接の関係はないが、2か所に「クライテリア」という言葉が使われている。

この「開発vs保存」から見えてくることは、成長時代(=近代)において、経済原理、経済的価値がいかに絶対的なクライテリア(基準)になっていたかという事実であろう。

 彼(ヴィオレ=ル=デュク)は「どの時代に戻すべきか」ではなく、「どの形態が美しいか」を、建築家としての立場を議論すればよかったのだ。そしてそれは、中世の教会堂の修復でも、ゴシック・リヴァイヴァルの新築でも、ひとしく応用可能なクライテリアだったのである。

 私はこの言葉にここ20年間のうち今回で3回接したことになる。最初は美術家の吉田暁子の発言で、2度目は長谷川祐子『破壊しに、と彼女たちは言う』(東京藝術大学出版会)の中で、そして今回である。本書で加藤は「クライテリア(基準)」と書いている。吉田は、批評の基準と言っていた。気になる概念だがあまり使われたのを見たことがないので記録しておく。



時がつくる建築: リノべーションの西洋建築史

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