ジャコメッティ『エクリ』を読んで


 ジャコメッティ『エクリ』(みすず書房)を読む。ジャコメッティが書いた文章を集めたもので、雑誌等に発表したものから、メモ、断章、そして対談を収めている。全部で450ページもあるが、メモ、断章が200ページ近くを占めている。既発表の文章からこのメモ、断章までが80%を占めている。ジャコメッティは造形芸術の人で、文章の人ではないことがよくわかる。で、この80%はジャコメッティのディープなファン以外あまり楽しめないだろう。
 それ以外の対談(対話)が面白かった。矢内原伊作との対話も12ページほどだが収められている。なかでも特にアンドレ・パリノとの対話が興味を引いた。そこから引用する。

パリノ――現在のあなたにとって絵を描き彫刻をする冒険とはどういうことなのでしょうか。
ジャコメッティ――世界を見ること、理解すること、世界を強烈に感じ、われわれの探検の能力を最大限に拡張することだ。しかし絵画を三つの斑点(ターシュ)に縮約してしまうと、世界の理解は非常に狭くなってしまう。ほとんどあらゆる絵画において――これは最近大いに感じていることだが――抽象絵画であれ、タシスムであれ、非定形絵画(アンフォルメル)であれ、実際にはヴィジョンというものはとりわけ色彩に関連するだけに一層そうなのだ。ところで色彩のヴィジョンというものは印象派がもたらしたものと今もってほとんど変らない。だから、世界の見方という点ではわれわれはさして進歩していないということができる。キュビスムは或る期間幻想を与えたが、キュビスムは結局印象派そのものと非常に近いヴィジョンに帰ったということにだれもが気づいている……そんなわけで、いまでも印象派のヴィジョンが支配している。
パリノ――印象派のヴィジョンとキュビスムのヴィジョンは根本的に違うのではないでしょうか。
ジャコメッティ――キュビスムは最後には、すなわち芸術制作そのものを廃棄して貼り絵(パピエ・コレ)に終った。一つの椅子なり物なりをとらえて、それを提示すれば芸術作品になるというわけで、それは一挙に芸術作品を作ることをやめてしまった。つまり芸術作品は廃棄された。それゆえ起源に帰らなければならなかった。ところで《帰った》という語はすでに敗北したということだ。しかし、じっさいにはそれほど《帰った》というわけではない。

 このあたりきわめて大事なことが語られている。
 さて、つまらないと言った断章のなかで、個人的に面白かった部分を引く。

 夏の午後、涼しい木陰で頻繁にいっしょに、自慰行為に耽ったこともある。だが二人が同じ女の子のことを考えるのではまずかった。前もって同級生の女の子の誰のことを考えるか、決めた。ぼくらは9歳か10歳だった。多分もっと小さかったかもしれない。

 二つ驚いた。この年齢はいかにも早熟すぎるのではないか。スイス人は早いのだろうか。田舎の小学生だった私は12歳だったと思うし、おくてだったI君は高校に入ってからだと言っていた。もう一つ驚いたことは同級生の女の子のことを考えてしたという点だ。身近な誰かを考えるのは汚してしまっていけないことだと思っていたから。
 本書は1994年に初版が発行されている。国立新美術館でのジャコメッティ展に合わせたのか、新装版が今年の5月に発行された。



ジャコメッティ エクリ 【新装版】

ジャコメッティ エクリ 【新装版】