長谷川祐子『破壊しに、と彼女たちは言う』を読む

 長谷川祐子『破壊しに、と彼女たちは言う』(東京藝術大学出版会)を読む。副題が「柔らかに境界を横断する女性アーティストたち」で、20人以上の女性アーティストたちを取り上げている。長谷川が機会あるごとに書いたレビューをまとめたものだが、古いものは1989年に雑誌に書いた「1980年代の女性アーティストたち」から、新しいものは2014年の草間彌生論まである。
 主なアーティストは、川久保玲田中敦子オノ・ヨーコ、シリン・ネシャット、サラ・ジーレベッカ・ホルンマルレーネ・デュマス妹島和世シンディ・シャーマン等々だ。森万里子もあった。総じてていねいに作家に寄り添って過不足なく紹介している。世界の音楽コンクールで日本人の演奏家が、機械のようにきわめて正確な演奏をするが、表現力が劣ると評されていることを連想した。長谷川は精密に正確に紹介しているが、なんだか頼まれて優等生的に書いているような印象だった。自分から進んで書きたくて書いているような、作家に対する情熱が希少だという傾向が感じられた。
 中では情熱をもって書いていることが感じられたのは、マルレーネ・デュマス妹島和世論だった。デュマス論は東京都現代美術館でデュマスの個展が開かれたときにカタログに書いたもののようだ。おそらくこの時長谷川が担当学芸員だったのだろうから、じっくりデュマスに向き合う機会があったのだろう。分かりやすい論文だった。ただカタログには図版が多用されていただろうし、それを前提に書いているようなのでそのあたりがちょっと分かりづらかった。
 妹島については「妹島和世西沢立衛SANAA」と題される論文で40ページを超えている。これも金沢21世紀美術館を造ったときの設計者がSANAAで、長谷川は美術館の立ち上げのメンバーだった。妹島らと議論を重ねてできたのが金沢21世紀美術館なのだから、情熱も。理解も十分なのだった。でもやはり建築を語るというのは難しいと思った。
 この妹島を語るなかで、長谷川がこんなことを言っている。「この独立した直後の時期、彼女は、伊東(豊雄=師)のクライテリアを自己批評の基準において仕事を進めたと言う」。この「クライテリア」という言葉を初めて聞いたのがほぼ20年前で、椹木野衣を囲むシンポジウムで作家の吉田暁子の発言の中にあった。彼女は日本の美術界にはクライテリアがないと言った。私がその意味を吉田に問うと、「批評の基準」のことだと教えてくれた。それから今日までこの言葉は本の中で2度見ただけだった。2度目が本書だった。だが、「伊東のクライテリア」と使うことは伊東の批評の基準という意味になって、吉田の言う「批評の基準」とは異なるように思うけど。
 長谷川の著書を読むのは2度目だった。その『「なぜ?」から始める現代アート』(集英社新書)も器用さが印象に残っているが。