金井美恵子の新作『カストロの尻』を読む

 金井美恵子の新作『カストロの尻』(新潮社)を読む。題名をよく見ると「スカトロの尻」では断じてなかった。スタンダールの『カストロの尼』を間違えて読んでいる男の話だった。いつもどおりの奇妙な小説、短篇連作である。前後にエッセイ2つを置き、その中に11編の短篇が挟まれている。その最初のエッセイが目次では「「この人を見よ」あるいは、ボヴァリー夫人も私だ/破船」となっていて、スラッシュのあとの「破船」が最初の短篇の題なのだ。本文の見出しは「「この人を見よ」あるいは、ボヴァリー夫人も私だ/破船」となっていて、本文中のどこにも改めて「破船」の題名は出てこない。それらしい段落もよく分からない。ただ、37ページまでの柱が「「この人を見よ」あるいは、ボヴァリー夫人も私だ/破船」となっているのに対して、(奇数ページにのみ振られている)39ページの柱が「破船」になっている。
 どの短篇作品もストーリーはあるのだが、普通の起承転結するような構成とはやや違っている。むしろストーリーを重視するのではなく、文体に注力している感がある。
 ここで近代美術の例を持ち出したい。古典的絵画ののち、印象派では写実的な描写から自然光の中に置かれた対象を描く作風に変わっていった。とくにモネなどの作品のマチエールは筆触を強く打ち出している。それまでの絵画の滑らかな画面に、モネは荒々しい筆の跡を残したのだ。次の世代になると、対象を再現しなくても、筆触だけで美しい画面が構成できると気がついた。抽象絵画と呼ばれる作品は筆触だけで出来上がっているものがかなりある。
 ここで金井美恵子に戻る。金井も美術の筆触にやや相当する文体の面白さだけで作品を構成しているのではないかと思い至った。

 お昼を食べた後(私たちは、四頭の乳牛を飼っている農家――自衛隊員の長男のところへ嫁に来た女の人が朝早くと午後の二度、しぼる――から買ってきて、シャッフルしたミルクとトースト、庭の小さな畑で育てているトマトとトーモロコシと、乳牛を飼っている家とは別の山羊とニワトリを飼っている家でわけてもらった卵、〈おはあさん〉は目刺しとタマゴと朝のワカメとフとネギのおみおつけの残りと御飯、つけ物)、雨が降っているにもかかわらず〈おはあさん〉は下の方の知りあいの家(乳牛の家でも山羊とニワトリの家でもない)に用事で出かけていたので、ポンプ式の井戸の木のフタを開いて竹かごに入れて吊してあるお昼の残りの日本酒の五合入りの水色のガラス瓶に半分より少し残っている冷たいミルクを飲みながら、シーンとして雨の降る音さえ、木々の間なのか土のなかなのかそれとも空へなのか吸い込まれて行くような午後、台所のあがり口に裸のまま座ってお風呂がわくのを待ちながら、何もすることがないのは退屈だろうから――ここいらには、遊び相手になるあんたと同じ年くらいの子供がどうしていないんだろう――あとでフランス刺繍の刺し方のキソを教えてやる、手すさびに丁度いい手芸なんだよ、と菊子は、酸いも甘いもかみわけることが出来る、とでもいったふうに少し投げやりなような物言いが、本当の年齢は知らなかったけれど、実際より大人びた感じがして、泥のはねのくっついている菊子の大きな、形がいいかどうかは判断がつかなかったが、豊かに盛りあがった乳房を見て、とまどいながら、うん、と答えたのだったが、母は座布団や手さげ袋に、ウールのはぎれを使ってウサギとか女の子の後ろ姿の図案をボタンホール・ステッチでアプリケしたけれど、図案を一針一針細かく埋める刺繍は、着物や帯を飾る日本刺繍や支那服やテーブル・クロスやハンカチの支那刺繍なんてものは、専門的な職人のやる仕事で言うまでもなく問題外とはいえ、あたしはフランス刺繍もスウェーデン刺繍も、眼も指も神経も疲れそうで、どうも好きになれない、と言うので、私は、白雪姫を産む前の王妃が刺繍をしていて、ふと物思いにぼんやりした時、針で指を刺し、指からポツリとしたたり落ちた赤い血を見て、血のように赤い唇の娘がほしいと思う、という物語の出だしを思い出すのだが、それからもうかなり時間がたっているので、産れてくるわが娘が持つようにと母の願った雪のように白い肌と漆黒の髪は、それなら何を見て思いついたのか忘れてしまっている。

 フォークナーは読者が簡単に読み飛ばさないように、登場人物の女性2人に同じ名前を付け、読者がじっくり考えながら読まないと混乱して分からないような工夫をした。金井はヌーヴォー・ロマンの理論家モーリス・ブランショの影響を強く受けていると言っているように、文体への偏愛が以上のような描写を生んでいるのだろう。


カストロの尻

カストロの尻