美術家柴田和とはどんな人物か

 
 今年2月から3月にかけて東京銀座の中和ギャラリーで柴田和 今昔展PART IIが開かれた(2月27日〜3月4日)。柴田の高校生のときの作品から最新の作品までが並んでいた。柴田は1934年生まれだから今年83歳になる。その高校生のときの作品の完成度の高さに驚いた。それで柴田がどんな半生を歩んで来たのか興味を持ち、柴田に時間を取ってもらって話を聞いた。
 柴田は1934年(昭和9年)9月愛知県一宮市に生まれた。6歳のとき画商をしていた父が亡くなったので母と群馬県藤岡市に転居した。
 1950年(昭和25年)に群馬県立藤岡高校に入学する。絵が好きだったので美術部に入り、3年生のとき美術部長になり、群馬県美術家連盟展に出品した作品が上毛新聞社長賞を受賞する。さらに全日本学生油絵コンクール高校の部で、天作賞に次ぐ地作賞に選ばれる。
 1954年(昭和29年)武蔵野美術大学に入学、その年の武蔵美文化祭に高校生のときに描いた「塗装工とネタ」の作品を出品して優秀賞受賞。翌1955年(昭和30年)に大学を中退、しばらくしてフランスへ渡る。フランスには約1年弱滞在した。そのころから影法師シリーズを制作する。これは高松次郎の影シリーズより早く、絵画というより現実に存在する突起物の偽の影を表現したもので、実態より影の方がより実態らしいというコンセプト。その後このシリーズがフランスの美術雑誌「クレー」に紹介された。柴田は一躍影法師作家と言われる。またイタリアの「ドムス」にも紹介されたが、雑誌が手許にないので詳細は分からないという。 
 フランスには1970年の大阪万博のあと、また1974年にも短期間だが行っている。
 柴田に先輩画家たちとの交流はあったのかと尋ねると、鶴岡政男のところへ出入りし、小山田二郎とも交際はあったという。
 最初の渡仏から帰った数年後、柴田は環境美術を標榜して活動を始める。美術館に展示する作品ではなく、街の中に設置する作品、環境の中に置かれて環境と一体化するような作品の制作を目指した。それに注目した企業からの求めもあり、建築とのコラボレーションを多く実現させる。そのため、東京新大久保にシバ・アート建築という会社を設立する。これはアートとデザインを兼ねた新しいタイプの会社だった。さらに会社の一角には現代美術の作家たちが利用できるアートギャラリーを設置した。
 1963年に読売アンデパンダン展が幕を下ろすが、最後の展覧会で柴田の作品が出品を拒否された。水を使うことを禁じた規約に反したというのが理由だが、その規約に反するような、しかし実はぎりぎりボーダーラインのような作品だったが、結局展示することはできなかった。翌年から空間創りを街中に移し、環境美術を始めた。柴田の芸術とは美と用のコラボレーションで、芸術と実用を一体化したものだ。
 新大久保にシバ・アート建築を設立したころ、近くに2歳年長の吉村益信のいわゆるホワイトハウスがあり、ネオダダのメンバーなどがしばしばシバ・アートに遊びに来てたむろしていた。アラーキー電通を辞めてフリーになったころで仕事がなく顔を出していた。
 年代が前後するが、高崎市立美術館では踏絵の作品を展示し、またおととしのギャラリー川船に出品した椅子は、美だけではなく座れて初めて自分の作品になるというもので1963年に制作したものだ。
 しかし、柴田は大阪万博前後から渓流釣りのフライフィッシングにのめりこんでいく。それが20年前後も続いた。シバ・アートの経営以外は釣りに集中する。しかし、作品の発表をしなかっただけで、メモ程度のモノはたくさん作りだめしていた。
 柴田はヤマメに的を絞り大型のヤマメを釣り上げることが目標になる。30cmを超えたヤマメをスーパーヤマメというが、柴田は40cmを超えるものをハイパーヤマメと名付け、それをしばしば釣り上げて、究極の45cmの大物も釣り上げている。
 柴田と話していて、私の出身地が長野県飯田市近郊と知ると、天竜川の支流の松川では××の場所で大物のヤマメを釣った。しかし私の出身の喬木村を流れる小川川には大物はいないと即座に断言した。本当に中部〜東日本の河川を歩き回っていることがよく分かった。そのころは釣りの雑誌にもしょっちゅう記事を書いていて、美術家より釣り師(アングラー)として有名だったようだ。渓流釣りに関する著書もたくさんあり、開高健フライフィッシングのアドバイスをしたのも俺だと言っている。釣りの世界での名前は「しばた和」、しかし柴田和は本名ではなくペンネームとのことで、本名は教えてくれなかった。読売アンデパンダン展に出品拒否されたときの名前も柴田和ではないらしい。
 最近の柴田の作品は、昔作った大きな環境美術作品のマケットに似た函の作品を作っている。柴田の函作品はコーネルのそれとは違って、ロマンチックな要素がない。柴田がリアリストであるからだろう。
 しばらく作品の発表からは遠ざかっていたが、ここ数年来再び都内のいくつもの画廊で個展を始めている。銀座の中和ギャラリーでの個展は昨年に続いて今年で2回目だったが、すでに来年の開催も決まっているという。毎週月曜日には銀座の画廊を回る柴田の姿が見られ、若い作家の作品を大きな声で批評している。その批評はしばしば的確で、実作者の批評として参考になることが多い。82歳という年齢を感じさせない精力的な活動だ。

■今年2月に銀座中和ギャラリーで行われた「柴田和 今昔展II」から

彫塑する男   1952年---18歳

石切り場の女  1952年---18歳  

自画像      1952年---18歳

塗装工とネタ(材料)  1952年---18歳

高校時代の仲間と柴田の作品(後ろの絵)


ポストモダンたちの誕生  1982年

函絵シリーズ  1970年代頃から    

現在の作品

松谷みよ子賛(山奥の細道)  1985年