良知力「春と猫塚」という優れたエッセイ

 30年ほど前に時々読んでいた良知力という社会思想史学者がいた。もう一人似た名前に竹内良知という哲学者がいた。姓は「らち」と読み、名前は「よしとも」と読んだ。良知とは孟子の言葉で生まれながら持っている知能を指し「りょうち」と読む。
 良知力が未来社のPR誌『未来』に「春と猫塚」というエッセイを寄せていた(1985年5月号)。あれから31年経つが印象深いエッセイでまだ憶えている。その続編が「猫に飼われて」と題して6月号に掲載され、両方とも翌年発行された『魂の現象学』(平凡社)に収録された。久しぶりに読み直したくて、図書館から借り出した。
 7年間飼った猫のペペが夢に現れる。「パパ、遅かったじゃないか」。ペペはニコニコと笑った。ペペが私の頭に飛び乗ろうとしてドジを踏み、私の頭に爪を立てた。「痛い!」目が覚めた。
 ペペが死んだのは1月22日の朝だった。紙箱に妻のネグリジェを敷き、その上にペペを置いて、そっと包んでやった。翌朝庭の梅の木の下に葬った。その小塚の上に信楽の狸を置いた。
 ペペが亡くなった半月後の2月7日、良知は妻とともに築地の国立がんセンター病院を訪ねた。胸部レントゲンの結果、肺ガンを指摘される。

「まあ覚悟はきめていますが、しかしだめになる前にやりかけの仕事をなんとか仕上げたいのですが、4、5年生きられませんか」。
 池田先生、苦笑いして答えなかった。
「じゃあ、2、3年はどうでしょうか」。
 せりにかけた叩き売りじゃあるまいしと自分でも思ったが、台の上に乗っているのが台湾バナナじゃなくて自分の寿命だということになれば、少しでもいい値をつけたいのが人情である。
「2年というのも大変ですよ」。

 しばらく前のあたたかな日に娘と一緒に北浅川の河原へ行った。ペペの墓石を拾うためだった。いまの狸じゃ美人のペぺに似合わない。手ごろな石を見つけて娘に担がせた。

 ペペの墓の上に白い梅の花びらがはらはらと降り注いだ。
「花が終って、今度はペペ、青々とした葉になるのね」と、妻が呟いた。
「死んでからもう2月半か。もうペペ骸骨になっちまったかな」。
 何気なく私が非情な言葉を口にすると、妻は怒って歯をむき出した。「何言っているの。ペペはちゃんと元のまま、生れたときと同じ可愛い顔をして眠っていますよ!」
 私は黙った。ただ木の下に眠るペペへの想いを私自身の移ろいの姿に重ねた。(4月14日記)

 翌月『未来』6月号に続編「猫に飼われて」が掲載された。良知の若い頃からの病歴が振り返られる。肺への転移が進行を続けている。頸部琳巴節が肥大し手術も難しくなる。

 小さな生きものたちが私の経験のなかを走馬燈のように現れては消え、消えては現われて、流れて行く。流れのなかに消えて行くものは声も残さない。黙って行くのである。本当なら私もそうしなければならなかった。こんな駄文を草することなく、黙然として歴史から消えて行けばよいのではないか。というより、歴史から自分をきっぱりと断ち切るべきだった。

 35年前、結核だった姉が家族に隠れて七輪で自分の持っていた写真や手紙や日記のすべてを焼き捨ててしまった。それからしばらくした夏の盛り、私たちが昼食をとっている間に、ひっそりと一人で逝ってしまった。25歳だった。「そのあわれさに私は胸がつぶれる想いだった。だがいまは、死ぬときはそれでよいのだと思う」。

 なまじ民衆の歴史などに興味を持ち、あと一つだけでも最後の仕事をしようかなどと欲張っているものだから、歴史から自分を葬ろうなどと思い定めながら、その口の裏で歴史から一つでも二つでも声なき声を拾おうとする。業なのだろうか。
 ここ半月ほどのあいだに疲れが体にこたえるようになってきた。でも今日は、ペペの墓のまわりの草をほんの申訳程度にむしってやった。(5月19日記)

 そして、7月号以降にもう良知力の名前を見ることはなかった。良知はその年の10月20日に亡くなった。享年55歳だった。
 『未来』で読んでから30年以上たった今も印象深く記憶にある。

魂の現象学―社会思想家として

魂の現象学―社会思想家として