ジャン・ジオノ『丘』を読む

 ジャン・ジオノ/山本省・訳『丘』(岩波文庫)を読む。ジオノ(1895−1970)はフランスの作家。生涯オート=プロヴァンスで過ごし、その土地を舞台に小説を書いていた。処女作の『丘』がアンドレ・ジッドの賞賛を受けたという。
 日本では昭和11年に最初の訳が出版されたが、2012年、岩波文庫から新訳が刊行された。その頃、管啓次郎が読売新聞に書評を書いている(2012年4月22日)。書評を読んですぐに買ったが、今日まで読まないで本棚に差してあった。その書評から、

 オート=プロヴァンスと呼ばれる南フランス内陸部は乾燥した風が吹きすさぶ高原で、その荒涼とした風土に人々は押し潰されるようにして生きてきた。その故郷のマノスクをほとんど出ることなく生涯を送った小説家ジャン・ジオノは、アメリカでいえばフォークナーにも匹敵する大作家だが、日本ではまだまだ読まれていない。(中略)
 わずか4軒からなる孤立した集落が舞台だ。老人ジャネが、そこで死の床についている。一方、水の少ないこの土地で泉が枯れ、動物用の水を飲んだ女の子が高熱を発する。凶事はそれに留まらず、激しい山火事が襲う。住民たちはこうしたすべてを丘の、土地そのものの、悪意であると考える。すると彼らの目には、自然力の世界とどこかで通じている言動がかねて多かった老人が、どうにも怪しい存在だと見えてきた。やつが災いを招いているのだ。生きてゆくためには、老人を殺すしかない。(中略)
 圧倒的な、驚くべき散文世界だ。人間世界がすべてと思いがちなわれわれの想像力を、地表へと、原点へと、引き戻してくれる。人はいつも土地を畏れ「動物たちや植物たちや石などに潜んでいる偉大な力」を敬いつつ生きてきたのだ。この上なく新鮮な読後感だった。

 フォークナーにも匹敵すると書かれれば読まねばなるまい。で読んで見たのだが、フォークナー云々は過大評価だった。フォークナーに見られる土俗性と絡み合った象徴性はジオノには見られない。素朴とはいえないが、それでも田園小説に分類されるだろう。そのままの田園に郷愁を覚えるには、もしかしたら昭和初期くらいまで戻らなければならないかもしれない。
 どうも私は管啓次郎の評価とは相性が悪いような印象がある。池上冬樹の書評ほどには違和感がないが。


丘 (岩波文庫)

丘 (岩波文庫)