『武士の娘』を読んで

 

 杉本鉞子著・大岩美代訳『武士の娘』(ちくま文庫)を読む。杉本鉞子明治6年越後長岡藩の家老の家に生まれ、武士の娘として厳格に育てられた。兄の友人と結婚してアメリカに渡り、2人の娘を出産して育てるが、帰国の途次夫を亡くし以後日本で暮らす。しかし娘の教育のため再びアメリカに渡る。
 全体をこんな風にまとめれば、明治の古い道徳に染まった婦人の懐古談で、読みにくい古風な文体で綴られているように思えるかもしれないが、原文は英語で書かれており、アメリカ人向けに書いたものを大岩が日本語に翻訳したもの。文章は読みやすく、分かりやすい。
 杉本が生まれたのは明治ではあるが、家庭は使用人ともども江戸時代の価値観に染められている。父が初めて牛肉を食べようとしたとき、祖母は仏さまを穢さないよう仏壇にめばりをする。
 近所に住む元武士の戸田は牛乳屋兼牛肉屋を始めるが、屍を扱うのは卑しいとされ、それに反対したご隠居は自害してしまう。戸田は店を魚屋に譲る。その後戸田は富裕な農家の用心棒や、学校の教師にもなるが、高い教養をもっていたにも関わらず、師範学校の課程を受けた者以外教職につけない法令が出されてその職を失う。ずっと後、東京で見かけた戸田は囲碁指南、さらに数年後、門衛をしているのを見かけた。
 正月や盂蘭盆会などの伝統的な行事が語られる。やがて著者に婚約の話があり、兄の友人でアメリカに住む男性と婚約する。アメリカに渡る準備として東京の学校へ入学することになる。
 兄に連れられて東京への長旅をする。女学校へ入学して英語を学び、キリスト教に入信する。いよいよ渡米するが、持参する衣類などでも家族や親せきの強い意見が幅を利かせてしまう。
 アメリカへ渡り兄の友人の杉本と結婚しやがて出産する。親切なアメリカ人の婦人の協力で新しい生活にも慣れていくが、途中で経験する様々なカルチャーショックが語られる。それにしてはすばらしい適応力だ。
 ほとんど信じられないくらい古風な生活習慣から、杉本はアメリカの生活になじんでいく。ところがアメリカで生まれた子どもたちとは違って、杉本は古い日本の価値観を捨て去ることはない。そのことは本書の記述のなかにはっきりと残されている。福沢諭吉封建制度は父親の仇ですと言った、古い身分社会や硬直した道徳、思想などを捨て、明治の文明開化は日本社会に新しい世界をもたらした。日本は西欧の文明を取り入れ、国力を増大させ経済的な発展をみた。そのことは事実だった。しかしその陰で、杉本が語る古い道徳や伝統が否定されて消えて行った。消えて行ったものがすべて悪いことばかりではない。誰かが書いた「峠」という詩の一節に「大きな喪失に耐えてこそ新しい世界が開ける」というのがあった。新しい世界を得るために失った貴重な世界があったことを本書から知ることができる。優れた文明論であった。


武士の娘 (ちくま文庫)

武士の娘 (ちくま文庫)