『ベイリィさんのみゆき画廊』を読む

 3月13日に神田の如水会館で「みゆき画廊50周年記念パーティー」が開かれた。そこで参加者に配られたのが牛尾京美著『ベイリィさんのみゆき画廊』(みすず書房)だった。みゆき画廊は1966年3月に現在の場所で開廊された。その第2東芝ビルは加賀谷小太が社長をしていて、ビルの一部を画廊にしようと考えた。娘の加賀谷澄江、通称ベイリィがその責任者になり、彼女は「貸画廊」という画廊の形式をを選択し、以来みゆき画廊はそのままで50周年を迎えることができた。
 1984年、牛尾は勤めていたデザイン会社を退職し仕事を探していた。たまたま大学時代の恩師(酒匂譲)に会い、みゆき画廊でアシスタントとして働かないかと勧められる。前のアシスタントが辞め、ベイリィさんが新しい人を探していた。面接の結果3月から務めることになる。
 牛尾は画廊の仕事について何も知らなかったが、徐々に学んでいく。私もちょっとだけベイリィさんと面識があったが、なかなか厳しい人だった。牛尾は素直な性格でその厳しい指導を淡々と受けていったのだろう。
 しかしベイリィさんが病に倒れる時が来る。画廊の代表はベイリィさんのままにして、牛尾が運営を任される。そのころ、2003年8月、東京国立近代美術館野見山暁治展が開かれることになった。ベイリィさんは本当に嬉しかったようだ。だが、体調が悪く展覧会に行くことはできなかった。オープニングパーティーには牛尾が代理で出席した。すると、何人かの人から不思議なことを言われた。「さっき、ベイリィさんに会ったよ」「ベイリィさん、お元気になられて良かったね」等々。三鷹の病院に寝ている彼女が美術館に現われることは不可能なのだけれど。
 2003年10月16日、ベイリィさんは武蔵野赤十字病院で亡くなる。享年76歳だった。亡くなった後、ベイリィさんの姉が1年間の約束で画廊の代表に就任し、牛尾がその下で画廊運営に従事した。しかし、姉は1年後の2004年に代表の役を下りて、牛尾に後を任せたいと言う。牛尾は辞退したが、周囲の声や家族の励まして経営者になることを引き受ける。
 それから12年、みゆき画廊は開廊50周年を迎える。しかし、同時に入っているビルが建て替えられることになって画廊の閉鎖を余儀なくされる。ベイリィさんが50周年は盛大にやりたいと言っていたのを守って、今回如水会館で来客300人以上と言う豪華なパーティーが実現した。挨拶に立った野見山暁治の言葉が印象に残った。ベイリィさんと牛尾、そしてみゆき画廊に対する野見山の深い愛情が伝わってきた。ベイリィさんに対する皮肉もちゃんと忘れないで。財界などからの形式的な来客がないことも良かった。
 私が牛尾に初めて会ったのは、みゆき画廊で野見山暁治の版画を買ったときだからもう27年前になる。当時の牛尾をほとんど憶えていない。若いスタッフがいてそれが彼女だったことは憶えているが、特段の印象がなかった。今回本書に掲載されている若いころの牛尾の写真を見ると、現在の彼女が信じられないくらいにあか抜けない印象だ。すると、牛尾を現在の洗練された銀座の女画廊主に磨き上げたのはベイリィさんだろう。彼女は優れた伯楽でもあったのだ。
 言ってしまえば、たかだか一つの画廊とそのオーナーのことを記しただけの本なのに、著者の人柄のせいか、一気に読み終えたし、ベイリィさんの最後の場面では涙腺が緩んでしまったほどだった。造本もきれいで、さすがみすず書房と感心した。途中に挿入されている主要画家の作品のカラー図版の選択もすばらしい。
 本書の巻末には、2,154回にのぼるみゆき画廊の展覧会リストが付いている。これは日本の美術史研究にとって貴重な資料となるだろう。


ベイリィさんのみゆき画廊――銀座をみつめた50年

ベイリィさんのみゆき画廊――銀座をみつめた50年