岡田暁生『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?』を読む

 岡田暁生『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?』(人文書院)を読む。副題が「音楽史における第1次世界大戦の前後」という。岡田は『オペラの運命』『音楽の聴き方』『西洋音楽史』『オペラの終焉』などクラシック音楽に関する優れた評論を書いている。
 第1次世界大戦は1914年に始まった。アヴァンギャルド音楽は第1次世界大戦直前ころ始まっている。シェーンベルクの始めた無調音楽は1908年ころから開始されている。「管弦楽のための5つの小品」が1909年、モノドラマ「期待」も1909年、「6つのピアノ小品」が1911年だった。ストラヴィンスキーがリズムの秩序を破壊した「春の祭典」を1913年パリ初演で発表し大スキャンダルとなった。そしてイタリアのルイジ・ルッソロがやはり大戦直前に騒音音楽を発表した。ルッソロの発明したイントナルモーリという楽器は自動車のエンジンのような爆音や銃の機銃掃射の音を発生させる騒音機械だという。
 第1次大戦前後の大作曲家たちの動向を見てみると、マーラーは1911年に亡くなり、ドビュッシーは1918年、スクリャービンが1915年、マックス・レーガーが1916年に亡くなっている。さらにリムスキー=コルサコフが1908年、バラキレフが1910年に亡くなっている。そしてプッチーニは戦争が始まる前にスランプに陥っていたし、シベリウスの創作も実質的に第1次大戦を境に終息へと向かう。ラフマニノフの創作も第1次大戦前に集中している。ラヴェルも主要作品の多くが第1次大戦前に作られている。リヒャルト・シュトラウスも第1次大戦とともに極端に創作力が落ちた。岡田はこのように総括する。
 岡田はドイツの音楽批評家パウル・ベッカー(1882〜1937)による評論を紹介する。それまで作曲家個人の創作に焦点を絞っていた音楽研究に、ベッカーは音楽と社会の問題を導入した。それは「音楽は社会が作る」というテーゼだった。音楽とは作曲家と社会との共同作業の産物だというものだ。ベッカーはベートーヴェンの《第9》に社会全体の統合を見ていた。それに対し戦後世代であるアドルノベートーヴェン交響曲に社会全体の統合を見たその一体感は熱狂の中での錯覚に過ぎないと見る。

フランス革命とともに解放された「市民社会を形成する」交響曲の行き着く先は、アドルノの考えによれば、アウシュビッツにほかならなかったわけである。皆で一緒に熱狂してはいけない――このアドルノの醒めた感覚は、彼がポスト第1次大戦世代であったことと、無関係ではないはずだ。その意味で第1次大戦はまた、人々に音楽が生み出す熱狂の危うさに気づかせた戦争であったとも言えるだろう。

 あとがきで岡田は書く。

……私たちが今日「クラシック音楽」と呼んでいるレパートリーは、第1次世界大戦をもってその発展をほぼ終えているのである。にもかかわらず、第1次世界大戦と音楽史を結びつける試みは、これまでほとんどなされてこなかった。(中略)
 新作の上演という点で1914年から1918年にかけての西洋音楽史がほぼ「開店休業状態」にあったことは確かだ。音楽史にとって重要な作品は、少数の例外を除き、大戦の前か後に現われている。……

 150ページ未満の薄い本だが充実した内容だった。本書は「レクチャー 第1次世界大戦を考える」の1冊として刊行された。このシリーズにはほかにも興味深いタイトルがいくつか並んでいる。河本真理『葛藤する形態――第1次世界大戦と美術』なども読んでみたい。