浅川マキ『こんな風に過ぎて行くのなら』を読んで

 浅川マキ『こんな風に過ぎて行くのなら』(石風社)を読む。1971年から30年間ほどにわたって書いたエッセイを集めたもの。浅川マキは好きな歌手の一人だ。ユニークな作詞家である。とても良い歌を書く。それがこのエッセイ集では基本的な文章の展開がうまくいっていないきらいがある。飛躍が目立ったり説明不足だったりしている。すると、優れた作詞家にとって論理的なエッセイを書く能力は必ずしも必要ではないということなのかもしれない。以前、戦前の、コピーライターの創始者みたいな人の長文エッセイを読んだことがあったが、これがひどい文章で驚いた。体言止めを頻発していて、広告の短いコピーならちょっとしゃれていて面白いと思えるかもしれないが、普通の文章では不自然にぶつ切りになっていて、むしろ悪文に属している。だから文体も目的にあってないと私ごときからも批判されてしまうのだろう。
 本書に浅川マキが作家の宇野千代のことを書いているくだりがある。

 テレビで宇野千代さんを観たのは、小説『雨の音』を読んでからずいぶんと経った頃だ。
 「尾崎士郎とは、会ったその日に寝たの」
 「東郷青児のときも、寝たの」
 「北原武夫とも、寝たの」
 インタビュアが口を挟む余地などなかった。対談にならない、どうしましょう、とベテランのその相手の動揺に、「いいのよ、気にすることないの、あなたはあなたのままでいいの」と言ってから微妙な笑い顔をした。

 このベテランインタビュアとは黒柳徹子だろうか。
 造本上で違和感があったのが、106ページの中扉の「こんな風に過ぎて行くのなら」のページだ。ノンブルも打たれている。これが偶数ページだ。この言葉は本書の題名と同じで、隠しノンブル1ページ目には「こんな風に過ぎて行くのなら⦿目次」とあり、同じく5ページめに「 こんな風に過ぎて行くのなら」と扉がある。その次の6ページ目も隠しノンブルの裏白で何も印刷されていない。この辺りはまともなのに、どうして106ページの中扉が偶数ページなのか。106ページを白にして、107ページに中扉を置き、隠しノンブルにして107は振らないでおく。束の関係から末尾の広告ページが1ぺージ減ってしまうけど、2ページを当てている広告を1ページに押し込めばよいだろう。つい昔の編集者としては造本上の瑕疵が気になってしまうのだ。
(隠しノンブルとはノンブル=ページの数字を振らないこと)


こんな風に過ぎて行くのなら

こんな風に過ぎて行くのなら