作間敏宏展「治癒」を見る

 東京千駄木のギャラリーKINGYOで作間敏宏展「治癒」が開かれている(1月17日まで)。画廊の一角に今回の展示についての作間の言葉が貼られている。

1995年に農業用ビニールハウスをそのまま使ったインスタレーション「治癒」を制作したとき、そこでのビニールハウスは、苛酷な外界から弱々しい生命を護る"皮膚"だったし、僕の眼はその暖かい内部に存在していたと思う。
あれから20年、僕の制作にまたビニールハウスや家が現れるようになったが、そこに前景化してくる意味やストーリーも、僕の眼がある場所も、以前と変わったのがはっきりとわかる。


そのビニールハウスの新作インスタレーションが1F展示室に、映像の新作インスタレーションが2Fの展示室に設置され、それぞれ独立しつつゆるやかに繋がって全体が構成される。




 1Fの空間に大きなビニールハウスが置かれている。ハウスのなかには作間のいつもの小さな電球が光っている。ハウスの先には電球が壁を伝って天上に伸びており、その両側に暗い写真が置かれている。暗い写真にはぼんやりした光が写っている。
 ビニールハウスは1995年のギャラリー日鉱での展示と異なって、半ば崩れているようにも見える。壊れかけたようなハウスの中で弱く電球が光っている。日鉱で見たビニールハウスは生命を育てている家=家族とか共同体の印象だった。今回のビニールハウスは生命の保護者というには何か頼りない印象が否めない。何が変わったのだろうか。


 2Fへ上がってみる。映像の作品で両側の壁面に電波を受けていないときのテレビ画面のような光景が動画で映し出されている。奥の方に四角なものが置かれていて、あれは何だろう。すると、その四角なものの中央に薄ぼんやりと丸い光が現れ、やがて楕円形になり、最後に人の形になっていった。ぼんやりしていて、女の人かなといった程度にしか映らなくて、また次第に消えていった。すると四角なものはモニターだった。しばらく何も映っていない状態が続いていて、やがてぼんやりと人型が現れてきてまた消えていく。
 2010年のギャラリー巷房での展示のとき、ゲーテの『ファウスト』の冒頭の詩を連想してブログに紹介したことがあったが、今回もこれを引用する。

 さまざまな姿が揺れながらもどってくる。かつて若いころ、おぼつかない眼に映った者たちだ。このたびは、しっかりと捕らえてみたい。いまもなぜか、あのころの夢に惹かれてならない。さまざまな姿がひしめき合ってやってくる! 霧と靄(もや)をついて迫ってくる。その不思議な息吹にあおられて、この胸もすっかり若やいだ。
 楽しかったころのことがよみがえってくる。やさしい影が立ちあらわれ、半ば消えた古い物語のように、初恋や友情がもどってくる。せつなさ、往き迷った人生の嘆き。つかのまの幸せにあざむかれ、花の盛りにどこかに消えていった人々を呼びもどしたい。

 これは記憶を実体化したものに似ている。記憶=過去はこのように戻ってくるのではなかったか。淡くおぼろに、どこまでも不鮮明に、だがしかし確固として。
 この単純な映像作品を見ながら、12年前に自死した友人原和のことが思い出されてならなかった。あと1週間で13回忌となる。涙がこみ上げてきた。
 作間の映像作品を数多く見てきたが、今回の作品が最も完成度が高いと思う。ギャラリーの展示空間を十全に使いこなした作間の個展をぜひ見てほしい。すばらしい作品だ。
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作間敏宏「治癒」
2016年1月5日(火)−1月17日(日)
12:00−19:00、月曜休廊
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ギャラリーKINGYO
東京都文京区千駄木2-49-10
電話050-7573-7890
http://www.gallerykingyo.com/
東京メトロ千代田線根津駅千駄木駅 両駅から徒歩7分


ファウスト〈第1部〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

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