出久根達郎『万骨伝』を読む

 出久根達郎『万骨伝』(ちくま文庫)を読む。副題が「饅頭本で読むあの人この人」とある。タイトルの万骨は漢詩の一節「一将功成りて万骨枯る」から採っている。縁の下の力持ちであり、上役の手柄のために犠牲になった部下のことを指す。それらのほとんど無名の人たちの人生を知るために饅頭本を読む。
 この「饅頭本」とは、古書業界用語の一つで追悼集のことだとある。葬式に参列した者に饅頭が配られた。いわゆる葬式饅頭だ。その饅頭代わりに故人を追悼する文集を作り、一周忌や三回忌に縁者に配った。それでこれらを饅頭本と言う。
 出久根は伝記が好きで、読むものの大半がこれだと書いている。生き方を学ぶには最適と思っていると。私も伝記は好きで読んでいるが、大半どころか数十分の1程度だろう。それでも昔カミさんに、伝記を読む人は嫌いよ、覗きみたいじゃないと言われたことが少々応えてまだ憶えている。生き方を学ぶには最適なんだと言ってみたい。
 本書で取り上げられた人が50名。本当に無名に近い人ばかりで、私が知っている人はたった5人に過ぎなかった。でも面白い内容だ。
 最初に芸者や女優などが紹介される。その中で「つや栄」という芸者の色ざんげが傑作だ。付き合った第19代横綱常陸山とのあれこれから、関係を持った人物の名前を本名で記している。旦那の名前も恋人の名前も明かしている。新聞社の社長の愛人になったとき、昔の恋人と深い仲になった。そのときのこと、

久しぶりだったから、ずいぶん、やったわネ、いま考えても鎌倉駅の階段が上れなくなっちゃったくらいだから。あんまり、くっつきすぎちゃって――それで階段のところで転んじゃった。眼は黄色くヘンテコに見えるし、男の人は真っ蒼い顔してるし『あンた、気まりが悪いから、先に乗ってよ』あたしは、後から乗って東京に帰った。

 そ、そ、そうか、そんなになっちゃうのか! そういえば、昨夏、銀座三越エスカレーターで、私の後ろの女性が連れの女性に、この前ロサンジェルスで彼と会ったとき、3日間やりまくったわよと小さくはない声で喋っていた。エスカレーターを降り少し離れてその女性の顔を見てしまった。30代前半くらいの割合ケバイ印象の方だった。
 清水の次郎長が役人に追われて旅に出たとき、子分が賭博で負けが込んで、次郎長から融通してもらった。それでも負けて宿に帰ると、真夏で次郎長とほかの子分が裸で寝ていた。その着物を持ってまた賭場に行く。そしてすっからかんになる。次郎長たち朝起きて衣類がないのに驚くが、泣いて詫びる子分を許して、一同裸で旅を続ける。その後の話もおもしろい。
 津波から村の人たちを多く救った浜口梧陵の話は感動的だ。地震のあと、高台から見ていたら潮が沖に向かって走っていく。祭に夢中の村人たちは気づかない、浜口は稲わらに火をつけて村人たちに知らせた。その後も私財を投げ打って家屋50軒を建設した。さらに防潮堤を作った。
 乃木将軍がローマ字日記を書いていたというのも初耳だった。ローマ字日記といえば石川啄木だ。他人に読ませたくないことをローマ字で書く。啄木のローマ字日記は赤裸々なセックス日記で、本邦初の「フィスト・ファック」の場面さえある、と出久根が書いている。で、期待して乃木将軍のローマ字日記を読むと、刀の話ばかりであるという。しかし、出久根さんが著書の中でフィスト・ファックなんて書くんだ。私なんかまだ口に出したこともないし、まして体験したことも体験しようと思ったこともないのに。そういえば、昔カミさんに、石井某さんが3Pしたってなんて言ってしまって、3Pって何よと聞かれてしどろもどろになってしまった。
 出久根の文章が良い。ほとんど無名の人たちの人生をこんなにも面白く語っている。けだし話芸だろう。