70年前の今日、山田風太郎の日記から

 山田風太郎は『甲賀忍法帖』『伊賀忍法帖』などで名高い大衆作家だ。70年前、昭和20年に書いていた日記が『戦中派不戦日記』(角川文庫)として公刊されている。当時山田は東京医専の学生だった。戦争が終り、学校と共に疎開していた長野県飯田市より東京に戻り、廃墟となった東京で学生生活を始めている。その10月23日即ち今日の日記から。

(10月)23日(火) 雨
 ○10時ころ起床。高須さんと2人で貧しき朝兼昼食。
 正午ごろ新宿にゆきて、学校に行ってみる。飯田より帰還の荷物第一陣が午前新宿駅に到着するゆえ生徒は協力をせられたしとの掲示があった。
 伊勢丹でも三越でも1枚10円で漫画家が似顔を書いていた。見本として貼ってある顔もアメリカ兵の顔で、Welcome!とかEverybody!とか、やたらに英語が書きたててある。
 2時ごろ上野にいく。構内埃立ち迷い、幾百千の人々の泥靴とどろく。冷たいコンクリートの床に横たわっている3人の少年があった。顔は新聞でかくしているが、痩せ細った手足の青さ。また円柱の下で、半裸の女が新聞を舐めていた。凡らく握飯でも包んであった新聞紙であろう。
 この駅では今、住むところのない老人や少年たちが、多いときは5、6人、少ない日でも2、3人は毎晩餓死してゆくそうである。浮浪少年たちはグループを作り、それぞれチンピラの親分があって、スリ、カッパライ、また米兵にねだって獲得した煙草やチョコレートを売って暮らしているそうである。復員した工員や戦災孤児が多いという。老人も爆弾で家を焼かれ身寄りを失った人ばかりという。駅前の宿屋には復員して来たが東京の家も肉親も消え失せていたという兵士が茫然と暮しているが、その生活費として1カ月千円以上かかるという。闇で食糧を買わなくてはどうしようもないからである。 
 5時半石岡町着。松葉熱さり、痛みも収まりたるごとし。左頬大いに腫る。
 ○ブルノー・タウト『日本美の再発見』読む。


山田風太郎『戦中派不戦日記』を読む(2015年10月12日)