小熊英二『生きて帰ってきた男』を読む

 小熊英二『生きて帰ってきた男』(岩波新書)を読む。副題が「ある日本兵の戦争と戦後」。戦後シベリアに抑留されたある日本兵、実は著者の父小熊謙二の歴史を息子英二が聞き書きでつづったもの。これがとても良かった。原武史朝日新聞に書評を書いている(2015年8月16日)。それを一部引用する。

 小熊謙二は1925年に生まれ、戦争末期に召集されて旧満州終戦を迎えた。戦後はシベリアで抑留生活を送り、帰国してからは結核療養所で過ごし、退所後は高度成長の波に乗ってスポーツ用品店の事業を軌道に乗せた。そして仕事の一線から退くや、同じくシベリアに抑留された中国在住の元日本兵とともに戦後補償裁判を起こしている。
 本書は、こうした父の生涯を息子である著者が長い時間をかけて聞き取ったオーラルヒストリーであり、小熊謙二・英二父子の共著としての性格をもっている。戦中から戦後にかけて、幾度も死の淵に立たされながら、そのたびに生還する謙二の生涯は劇的ですらある。シベリア抑留や療養所体験という、これまで必ずしも十分に語られてこなかった戦後史の一証言としても貴重である。

 あとがきで著者が本書の内容を的確に要約している。

……この本は二つの点で、これまでの「戦争体験記」とは一線を画している。
 その一つは、戦争体験だけでなく、戦前および戦後の生活史を描いたことである。多くの「戦争体験記」は、戦前および戦後の記述を欠いている。そのため「どんな境遇から戦争に行ったのか」「帰ってからどう生きていったのか」がわからない。
 それにたいし本書では、戦前および戦後の生活史を、戦争体験と連続したものとして描いた。それを通じて、「戦争が人間の生活をどう変えたか」「戦後の平和意識がどのように形成されたか」といったテーマをも論じている。
 二つ目は、社会科学的な視点の導入である。同時代の経済、政策、法制などに留意しながら、当時の階層移動・学歴取得・職業選択・産業構造などの状況を、一人の人物を通して描いている。本書は一人の人物の軌跡であると同時に、法制史や経済史などを織り込んだ、いわば「生きられた20世紀の歴史」である。
 また本書の対象人物は、都市下層の商業者である。記録が残りがちな高学歴中産層ではない。そのため、「学徒兵から会社員へ」という、多くの戦争体験記とは異なった軌跡を記述することになった。これに社会科学的な視点を加えたことで、日本現代史の研究に独自の貢献をなしえた部分もあろうかと思う。

 内容が重たいわりに聞き書きなので、400ページ近い新書としては厚い本をすらすらと読むことができた。読み終わって小熊謙二の人となりが身近に感じられ、優れた伝記を読んだ思いがする。社会学的にも文学的にも高い達成を示していると思う。
 本書は小林秀雄賞を受賞した。