渡辺利夫『放哉と山頭火』を読む

 渡辺利夫『放哉と山頭火』(ちくま文庫)を読む。尾崎放哉と種田山頭火を併せ論じているとはなんと魅力的な仕事だろうと読みはじめた。著者は二人の事績をよく調べてていねいに書いている。子どもの頃から亡くなるまでの経歴が時代を追って記される。良い仕事をしている。
 そのうちに、記述が詳しすぎることに気づく。山頭火は日記を焼き捨てているというし、放哉についてもまるで小説のように微に入り細にわたって書かれている。山頭火が一度捨てた妻のもとに何年かぶりで帰ったとき、妻咲野は怨みがましいことを言わないで迎えてくれた。二階に案内されて薄い布団に寝そべる。

 風呂場で湯を流す音が伝わる。湯船に浸かっているいる咲野の姿を思い浮かべて、衝動が体を走る。咲野はもう寝入っているのだろうか。そうと階段を下りて咲野をうかがう。外套の明かりが咲野の横たわる布団の花模様をうっすらと浮かびあがらせている。咲野の布団にすべりこむ。

 そんなこと、どうして知っているのか。そのあと二人がしばらく生活を共にしたので、渡辺がそう想像しただけだろう。それともそれを裏付ける句を書いているのか。
 詳しい部分がある一方、まるっきり簡略に済ませているところもある。山頭火は信州伊那での放浪の末に果てた、文政期から明治初期の俳人井上井月ゆかりの地を歩きたい。井月の精神に通じたかった。それで伊那を目指す。

 昭和14年3月、徳山、広島、京都、近江、名古屋、刈谷豊橋、浜松を経て天竜川を北上し、伊那へと向かった。

 長い旅だったはずなのに、通り過ぎた地名の羅列で済ましている。詳しい部分はまるで小説のように細部まで書きこんでいるのに、ある部分は簡単な年譜もかくやというくらいに簡略に済ませてもいる。肝心の句についてもところどころに挿入されてはいるが、伝記的内容と深く絡み合っているとは言い難い。
 驚いたのは247ページに「三頭火はこれを飯食代として返却し」とある。主人公の名前を誤植するのはアウトだろう。
 裏表紙の惹句によると、「アジア研究の碩学による省察の旅」とある。力作であることは間違いないのだが。