大村彦次郎『東京の文人たち』を読む

 大村彦次郎『東京の文人たち』(ちくま文庫)を読む。大村は講談社の『小説現代』『群像』編集長を経て、文芸出版部長、文芸局長、取締役を務めた。本書は東京出身の文人たち100人をエピソードを中心に紹介している。文人といっても、小説家、詩歌人、随筆家、劇作家・劇評家、画家、役者まで含んでいる。1人ちょうど3ページに収めている。それは厳密な分量で、3ページ目の最後が1行空いていたりぴったりだったりで、何行も空いているのはない。それではと思ってみると、ちくま文庫に書きおろしたものだった。ゲラの段階で3ページに収まるように調整したのだろう。エピソードが中心だから読んでいて面白い。最低限の情報も欠けてはいない。文人を巡る縁戚関係もけっこう詳しい。いわば「東京出身文人事典」と言ってもいいのではないか。
 挿絵画家として著名な木村荘八(しょうはちと読むなんて知らなかった)について、

(……)父の荘平は京都宇治の出身で、これはケタ外れな事業家であった。競馬場や火葬場の経営をする一方で、東京の盛り場のあちこちに鳥鍋や牛鍋の店を番号順に開き、自分の愛人にそれぞれの店の管理を任せた。彼女らを「ご新さん」と呼び、荘八の母鈴木ふくもその一人であった。妻妾あわせて20人、13人の男子と17人の女子をもうけた。

 川田順について。川田も庶子として生まれた。住友総本店の常務理事まで務めたエリートだったが、突然辞表を提出した。数え68歳のときに人妻と恋愛し、悩んだあげく家出し、自殺を試み、ジャーナリズムから〈老いらくの恋〉と騒がれた。そのころ作った短歌。
  相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ
 これも、人妻と不倫していた北原白秋の短歌を思い出す。
  君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
 川田の恋愛を知った斎藤茂吉が川田に手紙を書いた。

 拝啓 あゝおどろいた。あゝびつくりした。むねどきどきしたよ。どうしようかとおもつたよ。……無理なことをしてはいかんよ。お互いもうじき68歳ではないか。レンアイも切実な問題だが、やるならおもひきつてやりなさい。一体大兄はまだ交合がうまく出来るのか。出来るなら出来なくなるまでやりなさい。とにかく無理なことをしてはいかんぞ(以下略)。

 「 お互いもうじき68歳ではないか」、では現在の私と一緒だ。
 詩人で歌謡曲の作詞家でもある西條八十については、

謡曲の作詞家として一世を風靡していた西條に対し、ある時(学生だった)田村(泰次郎)が、「先生は全国を旅して、あっちこっちの地方の唄を作っていますが、女はどこが一番いいですか」と、質(たず)ねた。西條はちょっと考えたあと、「そりゃ、やっぱり新潟だね。なんといっても新潟の女は寝るとき、裸になるからね」と答えた。

 このエピソードはイタリアの作家ランペドゥーサの小説『山猫』(ヴィスコンティが映画化もした)の主人公のサリーナ公爵の台詞を思い出す。

 私の身体は、いまもって活力が溢れんばかりだ。どうして一人の女性だけで満足できよう? それも彼女(公爵の妻)ときたら、ベッドの上で、抱かれる前に必ず十字を切り、そのあと絶頂の瞬間には、「イエス様マリア様」としか言わないのだ。(中略)それにしてもいままで私は、あの女の臍を見たことがない。いったいこんなことが許されるのだろうか?

 公爵は妻の臍さえ見たことがない(上品だからこんな言い方をしている)。だから娼婦との浮気を繰り返すのだと言い張っていた。
 大岡昇平の母つるは和歌山市の芸妓屋の娘だった。彼女は芸妓という職業がいやで、大岡の父との結婚によってその境遇からの脱出を図った。

 母の秘密を知ってから、少年の大岡は母親というものが自分にとっては保護者ではなく、いたわってあげなければならぬ哀れな女性というふうに映った。(中略)しかし、このことは大岡の深層心理に食い込み、彼の小説に出てくる女性はきまって複数の男と性的関係を結んだ。「武蔵野夫人」、「花影」の女主人公にその陰翳が宿った。

 とても面白く読んだが、なにぶん一人3ページというのは短すぎる。現在342ページだが、一人6ページにして上下2巻にするか、100人を50人に減らしても良かったのではないか。


東京の文人たち (ちくま文庫)

東京の文人たち (ちくま文庫)