唐澤太輔『南方熊楠』を読む

 唐澤太輔『南方熊楠』(中公新書)を読む。ていねいに書かれた熊楠の伝記だ。熊楠は柳田国男と双璧をなす日本の民俗学創始者でもあり、粘菌研究者としても一流で、在野でありながら昭和天皇へのご進講を務めている。
 若くしてアメリカへ渡り、いくつかの学校に籍を置いたがいずれも卒業することはなく、キューバにも植物や昆虫の採集旅行に行っている。25歳でロンドンに行き、数年間滞在して大英博物館に通ってそこの図書館で研究を続けた。今も続く『ネイチャー』誌に投稿し、その数も324本という膨大な論考を寄稿していた。しかし、東洋人に対する差別に激怒し、図書館内で相手を殴ったりして出入り禁止の措置を取られたりする。熊楠は失意のうちに帰国する。
 帰国後、熊野の那智や田辺に住み、植物や粘菌の採集に励み、また民俗学に関する研究を柳田国男とともに進めている。明治政府の行った神社合祀政策に対して、地域コミュニティの衰退や植物生態圏の崩壊の危機を訴えて反対している。これは極めて早い時期におけるエコロジー運動の先駆けだった。
 しかし熊楠は奇矯な行動も目立ち、極度の人見知りでもあって、アカデミックな世界にいくことはなかった。ハレの舞台に立つときは事前に大量の飲酒をして失敗することも多かった。
 柳田とは研究を通じて親しく交流を続けたが、性に関する意識の違いが原因で二人は別れることになる。熊楠は「性」を重視したが、柳田はそのことを嫌っていた。
 昭和天皇にご進講したことについて、熊楠の死後天皇伊勢神宮を参拝した折り、再び南紀行幸した際に歌を詠んでいる。


  雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ


 天皇の歌に民間人の名が含まれることは、異例中の異例であった。

 気持ちの良い伝記だった。ていねいに熊楠の生涯をたどり、その業績もきちんと紹介している。中公新書はこのような伝記のジャンルに優れている。
 さて、次は中沢新一南方熊楠論『森のバロック』(講談社学術文庫)を読んでみよう。



南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)

南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)