小松茂美『利休の死』を読む

 小松茂美『利休の死』(中央公論社)を読む。小松は「平家納経」を研究した古筆学者。その世界では大御所として知られる。小松は利休の手紙とされる368点を精査し、また当時の利休を取り囲む人たちの消息=手紙を読み解き、本書を執筆した。
 千利休の伝記ではなく、その死を巡る謎の解明を行っている。秀吉から死を命じられて切腹するまでの短期間を追って、政治情勢と絡めて利休切腹の謎に迫っている。偉い学者が書いたと思えないほど緊迫した展開で、ここ何カ月か読んできた利休本の極めつけだった。
 利休は秀吉の茶の師であり、深い尊敬を得ていたのに、なぜ突如死を命じられたのか。しかも切腹した利休の首に対する処置も残酷なものがある。利休が自分の木像を大徳寺の山門に掲げた、それは山門を通れば大名でさえ足下にして踏むことになると、まず木像を磔にした。前代未聞のことだった。そして切腹した利休の首を京の街に曝す。

 まず、この『逢源斎聞書』によれば、2月28日の朝、十字架にかけた利休の木像を降ろすと、代わりに1本の木柱を立てる。その柱の根元にくだんの鉋掛折敷(最下級の据物)を据えて、その上に利休の首をのせる。その上、ちょうど利休の首のすれすれのあたりに、利休の木像の足が触れるようにする。つまり、利休(木像)みずからが、利休の首を踏みつけた形になるのである。このようにして、戻橋の広場に曝したという。

 さらに、利休の妻と娘が石田三成によって拷問され、蛇責めの刑で絶死したと書かれている資料も紹介されている。蛇責めというのは小さな部屋に罪人を押しこめて多くの蛇をまつわらせて責めるものとある。
 秀吉が利休を憎んで罪としたことの理由は当時から種々取り沙汰されていた。小松はそれら様々な意見を整理する。そして、
1.好色な秀吉が利休の娘である後家を見初めて求めたのに対して、利休がきっぱりと断ったこと。
2.新しい茶釜を古いと偽って高額で売ったこと。
3.利休が作った竹花生を高額で売ったこと。
4.大徳寺山門に自分の木像を掲げたこと。
5.利休所持の茶道具の秀吉所望に対する拒否。
6.茶の湯における利休と秀吉の意見の対立。
 などではなかったかとしている。
 2.に関しては使い込んだ茶釜は底が傷み、それを修理するのは当然のことだった。3.に関しては利休は自信を持って新しい道具を開発していた。と利休を弁護している。4.も含めてそれらが問題になったのは、石田三成の讒言によるものだろうとしている。さらに、秀吉の性格として突然短気を起こして残酷な仕打ちをすることがそれまでも何度かあったとしている。
 赤瀬川原平の『千利休』(岩波新書)を読んで、それがあまりにもつまらなかったので、何冊か読み継いできた。ここらへんでようやく千利休に関して納得できた気がする。とくに小松茂美の本書が白眉だった。


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利休の死 (中公文庫)

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