桑田忠親『千利休』を読む

 桑田忠親千利休』(中公新書)を読む。副題が「その生涯と芸術的業績」とある。あとがきに桑田は書く。

 私は78歳の今日までに、千利休に関しては、著書も論文も、またかと思われるほどに書いたり、書かされたりしてきた。また、他人の書いたものにも残らず目を通し、自説、他説ともに公平な立場でこれを批判し、評価してきた。(中略)本書は、その最終決定版としての、まったくの書き下ろしの著述であるが(後略)

 多くの読者の便宜を考えて、文章はわかりやすく、論調も明快を期したつもりであると続けている。桑田は1902年生まれで、本書発行時の1981年には79歳だった。
 本書は第1章「70年の生涯」が半分を占め、その生いたちから切腹まで、利休の伝記が綴られる。そのあとの4つの章で、処罰の原因と動機、芸術的業績、書と人物、利休流茶道の系譜が語られる。コンパクトでよくできた伝記だと思う。
 中公新書には本書のような人物伝が多く、私もたくさん読んできた。新書と言う媒体を、出版社の意図とは少しずれながら、大項目主義の事典として利用してきた。事典には小項目主義のものと大項目主義のものがあり、小項目主義は現在の日本の事典がほとんどそうなのだが、大項目主義では一つの項目に数十ページを充ててじっくり解説する方法を採っている。自分のその時々の興味に従って新書を買い求め書棚に並べれば、カスタムメイドの大項目主義の百科事典ができあがることになる。
 さて、利休の処罰の原因であるが、桑田は諸説を紹介してそれらを批判し、自説として大徳寺の山門の上に利休の木像を安置させたこと、また茶湯道具の目利き売買にあたって不正を行ったことにあるとする。だが、この不正とされたことの内実は、利休が唐物などの派手な道具を嫌い、新作の道具を考案してそれに高い評価を与えたことを、伝統的な価値観を保持している茶人たちが非難して、不正だとしたものだと桑田は書く。
 処罰の動機について諸説を紹介するが、新進歴史学者の説が否定される。だが新進歴史学者とあるだけでその名前は明示されていない。誰のことだろう? 「利休の書と人物」の項で、ある新進歴史学者によって、利休の書簡のなかに利休の右筆鳴海某の代筆したものが交じっているいる、これまで利休の真蹟として定評のあるもののなかにもかなり混入しているという説が提起されたと書き、だがそれは誤りだと強く激しく批判している。これは村井康彦のことだろう。
 ほかに小松茂美の説に対してもその名前を挙げないで、大御所の古筆学者として批判している。本当に自説に自信を持っているのだろう。千利休の小伝として分かりやすい本だった。