笹木繁男『ドキュメント 戦後美術の断面 作家の足跡から』の正誤表


 昨年10月に発行された笹木繁男『ドキュメント 戦後美術の断面 作家の足跡から』が好評でほぼ完売したという。それでいくつか誤りが見つかり、笹木が正誤表ならびに追記・補記を作成した。ここに、それを転載するので、購入された方は参考にしてほしい。
笹木繁男『戦後美術の断面』が発行された(2014年10月29日)

笹木繁男著『ドキュメント 戦後美術の断面 作家の足跡から』の正誤と、追記・補記


◎著者の訂正注記 Pと数字は、著書の頁を表す。→以降の箇所は訂正の文。


藤田嗣治
◎P60・5.藤田の戦争画の下から6行目「招集作家」は「召集作家」の誤り。


●戦後美術出発
◎P169・6「自由美術協会」の項、上から5行目、津田正周の読み(せいしゅう)は(まさちか)の誤り。


●鶴岡政男
◎P199・上から3行目に追記。→この項で、鶴岡の《重い手》1949年作について、以前から筆者の頭の中にあったことを抑え、従来の様々な解釈を踏襲してまとめた。
ところが出版後に、アートマガジン誌『百兵衛』No.31(2014.11)に掲載された林紀一郎の「鶴岡政男の手の仕事を見る」を、著者本人から贈呈を受けて拝読し、筆者の頭にあるこの作品の解釈の一端を記すべきだと強く考えるようになったので、それを以下にまとめる。
著者の林紀一郎の文に「彼はこの自作について、上野の地下道の浮浪者にヒントを得たと語り、外界の圧力に耐えている人間像をモニュマンタルに表現した」と解読しているのだが……ただ画題がなぜ《重い手》なのか……真意が呑みこめない、と素直に記されている。
従来の土方定一の解説にしても、絵に込められた精神性を強調し、その他の評者も、一見グロテスクで複雑な上部構造に触れても、《重い手》の画題の意味、《重い手》は何を指すのかについてあまり語られていない。
1950年3月に東北から上京した筆者は、上野駅での目撃体験を今でも忘れることができない。筆者は、当時を振り返り、鶴岡の指す《重い手》は、絵の前面に、手のひらを上に向け、投げ出したように差し出されている、大きな両手であると考える。それは【物乞いの手】である。
執拗な空爆にさらされた焦土、次いで敗戦。毎日を生きのびるのにやっとな、女・孤児・傷痍軍人・復員兵・失業者の群れが、上野駅の片隅の道路に並び、人間の尊厳もとうに喪失して、並んで差し出している【物乞いの重い手】である。
《重い手》の後方にひしめく、グロテスクで複雑な残像は、蝟集している、鶴岡自身をも含めた、老若男女のそれぞれの肉体の一部であろうか。


●山口薫
◎P256・上から9行目、読み(せいしゅう)は(まさちか)の誤り。


建畠覚造
◎P298・1955年。展覧会追記。→8月26日−31日、「43人展」銀座・松坂屋。《テラコッタ・作品名不明》出品。
◎P298・1956年。展覧会追記。→9月1日−10日、「現代彫刻10人展」新宿ギャラリー。出品作不明。10月12日−17日、「46人展」銀座・松坂屋。《作品》出品。
◎P298・1957年。展覧会追記。→11月12日−17日、「46人展」渋谷・東横。《コンポジション》出品。


草間彌生
◎P305の末尾に追記。→草間にとって「カボチャ」はなんであったのか? カボチャは、草間の幼少時から、実家である祖父の農園に身近に存在し、毎日のように手にとり、心で対話を交わした相手で、いわば草間の分身であった。それを何時間も、何日もかけて描くことが草間にとって、何時しか、心の慰安ともなっていた。絵画対象としての、カボチャに、違和感を持つ人もいるが、草間にとっては、カボチャは、作品制作のもっとも重要な要素である。筆者には草間のカボチャが、草間の自画像にも見える。


佐藤忠良
◎P348・1955年。展覧会追記。→8月26日−31日、「43人展」銀座・松坂屋。出品作不明。
◎P348・1956年。展覧会追記。→9月1日−10日、「現代彫刻10人展」新宿ギャラリー。出品作不明。
◎P348・1957年。展覧会追記。→11月12日−17日、「46人展」渋谷・東横。出品作不明。


●曹良奎
◎P377・1948年。→(注・彼の居所を江東区深川枝川町とするものがあるが、現在の正式名称は江東区枝川、かつては江東区枝川町、戦前は深川区枝川町と呼ばれていたことによるものであろう)
◎P378・1956年。展覧会追記。→10月12日−17日、「46人展」銀座・松坂屋。《重い体》出品。
◎P378・1957年。展覧会追記。→4月15日−20日、「10人・自由美術会員展」日本橋ヤナセギャラリー。出品作不明。
出品作品名判明。11月12日−17日「46人展」渋谷・東横に出品(作品名不明)を、《水浴》出品。と改める。


中村宏
◎P382・1932年。表記訂正。「浜松高等家政女学校(現・信愛学園・浜松学芸高等学校)の東北の敷地内にあった。」
◎P383・1954年。下から3行目(注・市村三男三:洋の誤り1904−1990)の注記に追記。→他に同時代の姓名の類似作家に、吉村二三生:彫1925−2002がいるが、中村の当時の記憶が、当人が超ハンサムな男性であった以外は不確かで、市村三男三ではなかったかと推測している)
◎P384・1957年。展覧会追記。→12月24日−28日、「絵は高いものではありません展」銀座・村松画廊に《作品名不明》出品。
◎P384・1958年。展覧会追記。→12月26日−30日、「集団30:絵は高いものではありません展」銀座・村松画廊に《作品名不明》出品。
◎P384・1959年。展覧会出品作名訂正。2月3日−8日、「集団30展」渋谷・東横に→《会議に捧ぐ》《蜂起せよ少女》の2点出品(出品目録による)。後に《会議に捧ぐ》は《会議劇》に改題された。
9月8日−13日、「集団30展」日本橋白木屋に《朝鮮海峡》出品に→(出品目録による)。を追記し、以下を次のように改める。→《朝鮮海峡》は、のちに改作し《階段にて》と改題された。
展覧会を追記。→12月25日−30日、「集団30即売会:絵は高いものではありません展」銀座・村松画廊に《拳銃売ります》4号出品。河原温は《印刷絵画》出品。
◎P386・1964年。3行目の(注・従来生年が寅年のためタイガーを名乗ったと言われているが、彼の生年1941年は寅年ではない)。注に追記。→中村によると、タイガーは当時、話題のタイガーマスクからの引用とのこと。また後年名乗った大河は、中国憧憬の立石が、中国の長江・黄河などの大河に因んだものと語る。
4月、一部追記。「路上歩行展」である。
6月20日−7月3日、「日本アンデパンダン64展」東京都美術館の出品作の《東海道本線乗り換え(鉄道の夢を改題)》を→《東海道本線乗り換え》(のちに「鉄道の夢」と改題)に訂正。
◎P387・1965年7月2日−10日、前衛美術会主催「東京芸術柱展」に出品の《観光図案》は《観光絵画》の誤り。
◎P388・1981年4月の豊橋・隆英堂画廊での「第18回個展」は、開始日を4月22日に訂正。また出品作品名《模計界》を《模型界》と訂正。
◎1982年に「第3回齣展」と「第19回個展」出品作の《ローズマッダーの残像》を、《ローズマッダー残像》に訂正。


●山下菊二
◎P359・最後から2行目、「身延山山奥」を「身延山の北にある富士見山麓」に改める。当地出身の練馬区立美術館長の若林覚のアドバイスによった。


瑛九
◎P460・末尾の関係図書に追記。→1999年6月23日:『親愛なる友 泉茂様 瑛九書簡と展評・デモクラートのことなど』マンモスアート刊。

小山田二郎
◎P475・1969年の末尾に追記、→この水彩画集に掲載された最初の作品数点《殺された》《凶兆》《壕生活者》《人々》《難民》《平和だった村》など、小山田には珍しく社会的な視点で制作されたと考えられる作品がある。当時の学生運動の高まりによる激しい闘争と、ベトナム戦況の末期的な状況が投影されたとおもわれる。
展覧会追記。→8月1日−6日、「小山田二郎個展」飯田画廊、水彩《風船3》など出品。
◎P476・1983年の最後、「というのである」を抹消。
◎P479・2009年2月8日以降、行を違えて頭出しをする。
◎P479・末尾・・など出品。のあとに、→以降の展覧会省略。を追記する。