中沢新一『はじまりのレーニン』を読む

 中沢新一『はじまりのレーニン』(岩波書店)を読む。本書はソ連崩壊3年後の1994年に発行されている。もうレーニンなんか過去の思想家だと思っていたが、本書を読んで考え方を改めた。
 レーニンの著作というと『唯物論と経験批判論』を思い出す。昔購入したが、ちょっとかじってみてそのあまりの粗雑な認識論にあきれたことがあった。結局読まないで手放してしまった。中沢もレーニンのこの本が粗雑だったことを認めている。しかし、中沢はレーニンの言葉、「物質とは、人間の意識から独立して、その外に存在する。」「物質の唯一の性質は、客観的実在にある。」「意識の外に、絶対的自然が存在する。」について、「このように書きつけるとき、レーニンの精神は、意識の外である「物質」に触れているのである」と書く。
 レーニンはその後ヘーゲルを読み直し、いわゆる『哲学ノート』を書く。それは結局時間がなくてまとまった著作になることはなかった。中沢はこの『哲学ノート』を高く評価する。
 レーニンの『哲学ノート』の一節を中沢は引用する。

別の言い方にすると−−−
人間の意識(認識)は客観的世界を反映するだけでなく、それを創造しもする。

すなわち、世界は人間を満足させず、そして人間は自己の行動によって世界を変えようと決心する。

 これに続けて中沢は書く。

 ここで、レーニンは完全に、『唯物論と経験批判論』における、唯物論的「フォトコピー論」をのりこえてしまっている。これは「物質」という彼のユニークな思想を、ヘーゲルの「客観的実在論」によって、複雑で豊かなものにしていくときに、とうぜん出現すべき思想だ。たしかに、人間の意識は、客観的世界を反映する。しかし、コピーとしてそれをおこなっているのではない。
 意識(主観)は、主体性を持っているのだ。主観が、自己運動する客観的実在の「脈動」に、よりしなやかに、より具体的に接近してゆくとき、そこで生まれる思考はよりいっそう実在の精神に近づいていく。しかし、そのとき、客観に接近していこうとする人間の主観が、自分のまわりに現実としてつくりだされている世界を見たとき、それに満足できない自分を発見するだろう。そして、意識はそれを変革し、新しい現実を、ひとつの客観性として創造しようとする。
 ヘーゲルは、それをつぎのように書く。

ところで、自分が即自かつ対自的に規定されたものであるという主観の確信は、自己が現実的であって、世界が非現実的であるという確信である……

 レーニンは、『大論理学』から、これらのことばを書き抜いたあとで、ノートの下の欄に枠で囲んで、ヘーゲルの言葉の唯物論的言いかえとして、さっきのことばを書きつけたのだ。

 そして、その先で、レーニンの弟子のソ連時代のケドロフ教授が、『哲学ノート』のこの箇所をとりあげて、これはレーニンの考えをあらわしたものではないと主張したことを紹介している。ケドロフは、『哲学ノート』が、『唯物論と経験批判論』の内容にたいして、根本的な批判を加えているのではないか、という考えを全面的に否定しようとして、こんな無理のある議論をしているのだと中沢は書く。
 ケドロフの文章はラヤ・ドゥナエヴスカヤの著書『Philosophy and Revolution (哲学と革命)』に引用されていると注18にある。注は続けて、

彼女はこの本の中で『唯物論と経験批判論』におけるレーニンと、『哲学ノート』のレーニンの「切断」を強調した。多少ニュアンスは違うが『哲学ノート』にいたるレーニンの「発展」を正確に位置づけたものとしては、許萬元『弁証法の論理(上)(下)』(創風社、1988年)がすぐれている。

とある。とつぜん許萬元の名前が出てきて驚いた。昔読んで弁証法に関するユニークで興味深い主張を展開していたことを思い出した。もう一度許萬元を読み直してみよう。
 レーニンの『哲学ノート』はこれも昔読んで、引っ張り出してみたら書き込みや傍線が引いてある。しかし、ほとんど憶えていない。難しかったのだろう。今ならもう少し理解力が増しただろうか。


はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

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弁証法の理論 上巻 ヘーゲル弁証法の本質

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弁証法の理論 下巻 認識論としての弁証法

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