最相葉月『セラピスト』を読む

 最相葉月『セラピスト』(新潮社)を読む。最相は以前『絶対音感』を読み、とても感心したが、本書はさらに優れた仕事だと言える。
 最相が精神科医中井久夫によるカウンセリングを受けるところから始まる。中井は最相に絵画療法を行う。白い紙に中井が縁を枠取りして、最相に紙を仕切るように言う。そして仕切ったところに色を塗ってください。次に新しい紙に枠取りして、木を1本描くように。次の紙は枠取りしないで、自由になぐり描きするようにと言う。さらに今度は枠取りしない紙に自由になぐり描きするようにと。いずれも1枚描きあげるごとに次に進んでいく。
 本文途中で、再び最相が中井の風景構成法を受けた経緯が語られる。風景構成法は中井が創案した心理テストを兼ねた絵画療法だ。白い紙を用意して、中井が指示するものを順に描き込んでいく。まず「川」、つぎに「山」、「田んぼ」「道」「家」「木」「人」「花」「動物」等々と続く。描きあげられた絵を見ながら、中井が分析していく。それを踏まえて最相が書く。

絵を鑑賞しながらのやりとりでは、中井のたった一言がきっかけとなって自分の中の苦い部分と直面することとなった。その苦い部分も、まだ半分以上は隠したままだという。中井には何かが見えているのかもしれないが、それをこじ開けようとはしない。半分以上隠したまま生きることしかできないできた自分を知る、ということなのだろうか。自分はそうすることしかできないと開き直るのではなく、そうすることしかできなかった自分がこれまでどう生きていたか、他者にどんな影響を与えてきたかと考える。すると、あのときのつらさや息苦しさはそのためだったかと、次々と思い当たるふしがあることに気がついた。中井の家を訪れる前とはまったく違う景色が前に広がるような、不思議な解放感がわき上がってきた。

 最相は河合隼雄が亡くなったあと、彼の特集を組んだ雑誌を読み進めるなかで、河合の弟子で箱庭療法を研究する木村晴子の論文を知った。そして木村が主宰する芦屋箱庭療法研究所を訪ねる。箱庭療法ユングの弟子だったドラ・カルフが発展させ、河合が日本に持ち帰って研究を重ね、臨床に応用していった。箱庭療法は砂を入れた箱を用意し、それに家や人形や木や自動車等々のおもちゃを置かせることを繰り返し、そのことによって、精神的な障害を持った患者が回復していくという療法だ。最相は箱庭療法を行っている研究者たちを訪ねて回り、取材を繰り返す。その過程で最相は臨床家を目指す人が通う大学院等に通い、臨床心理士の仕事を学ぶことになる。
 さまざまな研究者を訪ね、臨床の実際を学んでいく。そのことが本書の中心をなしている。その研究結果を紹介するのではなく、研究経過をていねいにたどっていく。
 中井から絵画療法を受けていた最相は、もっとよく理解するために最相がカウンセラーとなって中井を対象に風景構成法を試みる。それが終わったあと、

中井はおもむろにソファに移動すると、椅子にゆったりと体をうずめ、大きく欠伸をした。(中略)「絵を描くのは眠りを誘いますなあ、はあ……」
 中井の顔をのぞくと、すでに寝息をたてて休んでいた。

 「あとがき」で最相が書いている。

 箱庭療法風景構成法は、数ある心理療法の一つにすぎない。認知行動療法が隆盛の今、時間も手間もかかるふた昔前の両方を取り上げることにどんな意味があるのかという声も聞こえてきそうだ。
 しかし、これらが日本で独自の発展を遂げ、数え切れないほどのクライエントを癒し、彼らの認知世界への理解を深め、心理療法の歴史を塗りかえたのは確かである。その担い手であるセラピストのことを胸に刻むために、私は本書を書いた。

 とても充実した読書時間を持つことができた。いつか、これも評判になった『星新一 一〇〇一話をつくった人』も読んでみよう。



セラピスト

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