写真で抽象絵画?


 地下鉄外苑前駅の改札に続く地下道を歩いているとき、眼の端に一瞬優れた抽象絵画が飛びこんできた。よく見直すと、それは壁に作られたポスターを貼るスペースで、おそらく剥がされたポスターの両面テープの汚れが作る形がそんな風に見えたのだった。その"作品"に対峙してみれば、やはりそれは偶然できた形に過ぎなくて、本当の美術作品には達していないものだった。
 このとき思い出したのは、銀座のある画廊で3年ほど前に行われた写真展だった。その人は7年前に新国立美術館で個展が開かれたほどの実力ある優れた写真家だが、銀座の画廊の個展にはアメリカで撮影した街角の壁の汚れやポスターの切れ端、道端のオブジェのようなものを撮った写真が並べられていた。それは一見抽象絵画に似ていた。おそらく写真家も写真で制作した抽象絵画のつもりだったのだろう。
 しかし、それを見たとき強い違和感を感じたのだった。なにがこの違和感の原因だろうと考えてみた。写真特有のつるつるしたマチエールだろうか。手作業が全く加わっていない「形」のせいだろうか。写真家はその形を発見し、カメラのフレームに合わせて切り取った。その作業と、画家が絵具を塗りながら出来た形を確認しつつ完成させる、そのことのどこに違いがあるのだろう。
 外苑前駅の壁にできていた形が「作品」にはなっていないのと同じに、写真家が個展で発表した写真も、抽象絵画に似て非なるものだった。新国立美術館で発表した写真は、みな現代美術の作家たちの制作風景やインスタレーションを記録したものだった。それは非常に有意義な仕事だった。私もその分厚いカタログを購入した。しかし、個展で発表した抽象絵画もどきは見るに堪えなかった。
 では、写真で抽象的なものを表現することに問題があったのだろうか。そうは思わない。名前をあげることはできないが、そのような作品を発表して成功している写真家はいるし、身近なところでは森岡純を思い出す。森岡はもの派の個展風景を撮影することを通じて、そのユニークな写真表現に到達した。一見なんでもないスナップが、不思議な場所に変貌している。電信柱の根もとだったり、街路樹の葉群だったり、駐車場の入口だったり、そんなものが優れた写真作品になっている。正確には写真で表現した現代美術といったところだ。すると、先に言及した写真家の作品が美術に昇華していないのは、写真という手段のためではなく、彼の感性に問題があったのではなかったかと思われてくるのだった。