宇野千代『雨の音』を読んで

 宇野千代講談社文芸文庫)を読む。標題作のほか「この白粉入れ」や「水の音」など短篇5篇が収録されている。「雨の音」は中篇といってよいと思うが、本書の半ばを占めている。自伝的要素の色濃い作品だ。主人公の作家吉野一枝が東京会館で「小母さん、」と呼びかけられるところから始まっている。呼びかけたのは中年の男性で、昔一枝が男と同棲していたとき、その男の息子と3人で暮らしていたが、呼びかけてきたのはその少年の35年後の姿だった。同棲相手の男は少年の母親と別れ、少年は鬱屈したような日々を送っていた。一枝は当時のことを、「正夫(少年の名前)は私にとって継子でさえなく、ただ同じ家にいる他人の子供であった」と書いている。再開した正夫との関係の展開は何も書かれない。ほとんど関心がないように見える。
 宇野千代の自伝的要素が強い作品ではあるが、一緒に収録されている短篇などを併せ読めばまるまる私小説ではないことが分かる。おそらく自分の体験してきたことを微妙に変奏して繰り返し語っているようなのだ。どこまでが本当のことなのか、やっと2、3冊読んだだけの私には分からない。
 この「雨の音」でも、時間は過去に戻ったり、また簡単に20年、30年後に飛んだりして、単純な時系列を追って記されているのではない。自由に語っているという印象を受ける。そうか、宇野千代の特徴は自在な語り口なのかもしれない。
 年譜で見ると、宇野千代の男性遍歴は多彩だ。14歳のとき父の命令で17歳の従兄のもとに「嫁入り」し、10日間ほどで実家に帰ってしまう。高等女学校を卒業した千代は小学校の代用教員になるが、男性教師との恋愛から退職する。一時朝鮮の京城(ソウル)に行くが、戻って先に同棲した従兄の弟と同棲しのちに結婚する。そして懸賞小説に応募した作品が1等当選し、賞金の大金を得る。夫を置いて東京に出た千代は尾崎士郎と同棲し、大森に家を建てて住むことになる。ついで梶井基次郎と会い、二人の関係がうわさになる。その後東郷青児と会って一緒に住み始める。この東郷青児が正夫の父親ということになる。東郷が昔心中を図った女性とよりを戻して、二人の関係が破局となる。次に千代は10歳ほども若い作家北原武夫に入れあげて、以来長い同居生活が始まる。戦後すぐのころ、宇野はファッション雑誌『スタイル』を発刊し、これが大当たりして二人は大金を稼ぐが、やがて乱脈経営やライバル誌の登場などで雑誌は凋落し、大きな借金を抱えてしまう。苦労して負債を返済したとき、北原が去っていく。
 ここで瀬戸内寂聴宇野千代への弔辞を思い出す。

 男と女の話をなさる時は、芋や大根の話をするようにサバサバした口調でした。
 「同時に何人愛したっていいんです。寝る時はひとりひとりですからね」
 私が笑い出す前に厳粛な表情で、
 「男と女のことは、所詮オス・メス、動物のことですよ。それを昇華してすばらしい愛にするのは、ごく稀(まれ)な選ばれた人にしか訪れない」
 とつづけられました。

 宇野千代の人生は波乱万丈だったと言っていいだろう。自分の歴史に題材を取れば、テーマに事欠かなったように思われる。ただ、宇野千代私小説作家ではなかったので、暴露的に正確に書いたのではない。彼女の語りが自在で、それが宇野千代文学を成り立たせているのだろう。
 ただ、一時期一緒に暮らした同棲相手の子供(正夫)に対しても、深い感情を持ったようには見えない。それは宇野の性格の(大きくはないかもしれない)欠陥なのではないか。奔放な男性遍歴とそれを語る自在な語り口、それが宇野の文学の魅力なのだとしたら、この後も宇野文学をもっともっと知りたいという意欲には結びつかない。晩年の作品『薄墨の桜』あたりは読んでみたい気もするのだが。


雨の音 (講談社文芸文庫)

雨の音 (講談社文芸文庫)