中沢新一『バルセロナ、秘数3』(講談社学術文庫)を読む。本書は、1989年に雑誌『マリ・クレール』のために、取材に出かけたスペインバルセロナへの旅行記だ。しかし、あとがきに相当する「postluoi」に中沢が書いているように「風変わりな旅行記」だ。旅行記であるのは、たしかにバルセロナの街を歩き回りっている。そして、土地の変わった人たち、古本屋の店主やいつも酔っているような哲学者みたいな男たちと難しい会話を交わしている。バルセロナの歴史やキリスト教などを考察している。タイトルの秘数3というのは、バルセロナのあるカタルーニャという土地の形が三角形をしていることから派生して、カタルーニャの運命を決するような事件が、なぜか3という数字に付きまとわれていることから言われている。カタルーニャはスペイン、フランスのブルボン王家、ナポレオンの軍隊と、3度にわたって激しい抵抗の戦争を行い、そのたびに手ひどい傷を負っている。三角の土地、三角の大地と錬金術師が言っている。
しかし、ほとんどペダンティックとも言いうるような本書の記述は、中沢の時に踏み込みすぎる傾向を典型的に示しているようだ。私は中沢の著作が好きで何冊も読んできた。中沢は優れた文化人類学者で宗教哲学者だと思う。だが時に筆がすべって2点から円を描くような傾向が垣間見られることがある。その一例を示してみると、
東洋の絵のなかには、たくさんのトンボや蝶々が舞い、四季おりおりの花や草が咲きこぼれ、においたち、青春のおごりと成熟と死の時を、心ゆくまで味わっているかのようだ。しかし、その生物たちの生命の背景となっているのは、存在することへの意思にみちた自然の生命場ではなく、空虚な「無」の空間なのである。生き物たちのからだは、かそけき輪郭の線とともに、周辺の部分から、しだいに空白と「無」のなかに溶けいって、いつしか見分けもさだかではなくなっていく。生命と死とが、むこうが透けて見えるほどの薄い膜のようなものをとおして、ゆったりとしなやかに行き来を繰り返し、生命をもったものも、そこでは自分の存在を大きな声で主張したりはしないのだ。
モダニズムの芸術思想は、東洋をなかだちにして、「無」を発見したのだ。
それに対して、近代芸術における「抽象」の思想が現れたのを、アインシュタインの相対性理論が与えた思想的インパクトによると言っているのは、聴くべき価値があるように思われる。
「四次元時空」をめぐるアインシュタイン=ミンコフスキーの考えは、アヴァンギャルド芸術家たちに、空間にたいするダイナミックな思考法のヒントをあたえた。芸術家たちは、知覚できるモード(様式)に空間化されたものを、もはや絶対視することはできないと考えた。いまここで空間を占有してあるものは、隠されてあるダイナミックな四次元空間の断面にすぎないのだから、世界の真実のリアリティをとらえようとする芸術家は、そのような「空間化した対象」を否定して、その「内部」に動き、変化しつづける、人間の感覚様式をこえた領域を発見するために、その意識を使わなければならないのだ。アヴァンギャルド芸術は、目に見える木や花や女をそのまま描くことは、もはやないだろう。彼らが描くのは、自然の「内部空間」にほかならない。自然そのものではなく、その内部で動きつづけているピュシスの抽象空間に踏み込んでいくのだ。このように考える画家たちにとって、アインシュタインの思想は、科学の世界におけるたのもしい彼らの同盟軍にほかならなかったのだ。
別の個所で、『ヤコブ原福音書』を引いて、イエスを出産した処女マリアに対して、サロメが本当かどうか確認したエピソードが紹介されている。
そして産婆がほら穴から出ると、サロメが彼女に行き会った。そこで彼女は言った。
「サロメ、サロメ、あなたにお話しすべき光景があります。処女が、自然では理解できない子を出産したのです」。するとサロメが言った。「主なるわたしの神は生きておられます。もしわたしの指を入れて彼女の様子を調べてみないなら、処女が出産したことなど、けっして信じません」
そこで産婆は入って来て、マリアに言った。「身をととのえてください。あなたについて小さからぬ争いが起こったのです」。そしてサロメは彼女の中に指を入れ、叫びをあげて言った。「禍いなるかな、わたしの罪と不信仰は。わたしは生ける神を試してしまった。ごらん、わたしの手は火で燃え落ちてしまう」
ところどころ面白い部分があったが、旅行記としても思想書としても中途半端な印象はぬぐえなかった。
- 作者: 中沢新一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/03/11
- メディア: 文庫
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