會津八一記念博物館の荒川修作展を見て


 早稲田大学會津八一記念博物館で「荒川修作の軌跡−天命反転、その先へ」が開かれている(6月14日まで)。今年の春〜夏にかけて荒川修作+マドリン・ギンズにまつわる展覧会やトークイベント、ワークショップや映画上映など様々なイベントが開催されている。本展もその一環だが、先月は早稲田大学小野記念講堂で、荒川修作+M・ギンズ記念シンポジウム「ネオダダから天命反転、その先へ」が開かれた。また6月14日からは埼玉県立近代美術館で「読むように見ること−荒川修作の絵画」が予定されている。
 シンポジウムでは塚原史が司会進行役を務め、基調報告を建畠晢が行った。塚原史は荒川と交流があり、『荒川修作の軌跡と奇跡』(NTT出版)という著作がある。その他のパネラーは建築家の古屋誠章、ABRFの本間桃代だった。このABRFというのは、日本国内で荒川とM. ギンズの著作権管理や広報、三鷹天命反転住宅等の管理・運営などを行っている会社組織ということだ。本間の発言はだからその公式メッセージでもあるだろう。
 古屋の語る荒川のエピソードはおもしろかった。古屋は早稲田大学の建築科の教授だそうだが、この人の授業は魅力的だろうなと感じた。ぜひ建築に関する講義を聞いてみたい。
 基調報告の建畠は荒川についての輪郭を語った。印象に残ったのは、建畠が館長を勤めた国立国際美術館が最近荒川の渡米直後の作品を購入したことを話し、その初期の図形絵画を荒川の傑作だと指摘したことだった。映写されたその作品は、方眼紙のように升目が描かれ、その交点の一つに点が打たれ、その点から線が引かれて「mother」と黒い文字が書かれている。同じ点からもう1本引かれた線の先にはカラフルな文字で「mistake」と書かれている。建畠は方眼の升目が絵画を表し、matherは日本に残してきた母親だという。
 シンポジウムを聞いて何日か経ったあと、會津八一記念博物館へ「荒川修作の軌跡−天命反転、その先へ」という展覧会を見に行った。荒川の図形絵画が並んでいる。荒川の図形絵画を初めて見たのはもう46年前の1968年だった。どこかで行われた荒川修作展のポスターを友人から見せられた。部屋の俯瞰図みたいな絵で、家具の名前や何かが英語で示されていた。カーブした線を指してcatと書かれていた。こんなものが絵なのかと驚いたことをまだ憶えている。
 荒川は渡米してすぐデュシャンに会っている。図形絵画におけるデュシャンの影響は圧倒的だったのではないか。今回、會津八一記念博物館で見た荒川の作品がどうしても評価できなかった。シンポジウムでABRFの本間桃代がこんなことを言っていた。荒川のアメリカでの評価は日本より高くない、アメリカでの評価を高めることを仕事として進めていきたいと。荒川について日本よりアメリカでの評価が高いと思っていたので、この発言には驚いた。
 以前、玉田プロジェクトへアメリカのコレクターたちが現代日本美術を買い付けに来たとき、彼らが抽象作品はみなアメリカのコピー、亜流だとして一切興味を示さなかったというエピソードを思い出した。そして日本的と見なした作品だけを購入していったという。そのことは欧米の美術評論家たちが戦後日本の美術を評価したとき、山下菊二の「あけぼの村物語」を1位に推したことを思い出さずにはいられない。すると、荒川ではなく、河原温草間彌生村上隆らがアメリカでは評価されているというのが分かる気がする。
 會津八一記念博物館での荒川修作展は規模がとても小さかった。渡米前の棺桶シリーズも出品されていなかった。荒川を評価するのなら、この棺桶シリーズこそ重要なのではないか。晩年の岐阜に作った公園施設みたいな作品「養老天命反天地」は見ていないので何とも言えない。
 荒川は「死なないために」とか「人は死なない」とか言っていた。ABRFの本間桃代によると、渡米後のちのパートナーM. ギンズと出会って意気投合したのも、二人が極度に死を恐れていたことが共通したのだという。それを聞いてちょっと情けない気がした。
 6月14日から始まる埼玉県立近代美術館での「読むように見ること−荒川修作の絵画」展を楽しみにして、それまで荒川に対する態度は保留としよう。
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荒川修作の軌跡−天命反転、その先へ」
2014年5月12日(月)−6月14日(土)
10:00−17:00(日曜・祝日休館)入場無料
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早稲田大学 會津八一記念博物館
東京都新宿区西早稲田1-6-1
電話03-5286-3835
http://www.waseda.jp/aizu/index-j.html
早稲田キャンパス正門から入って左手に見える建物