ドナルド・キーンの『百代の過客』(朝日選書)を読んでいる。副題が「日記にみる日本人」というもので、上下2巻で平安時代の僧円仁の書いた『入唐求法巡礼行記』から徳川時代の川路聖謨の『下田日記』まで80冊近い日記を取り上げ、それぞれ数ページをあてて解説紹介している。
その『成尋阿闍梨母集(じょうじんあじゃりははのしゅう)』は84歳の老女が書いた日記だ。その息子の僧である成尋阿闍梨が61歳のとき、突然中国の五台山で修業するため中国へ渡りたいと言い出したことから、自分を日本に置いて中国へ渡ってしまうことを強く嘆いて書かれたもの。「自分があまりにも長生きしすぎたことで、彼女は自分を繰り返し責めている。もしもっと早く死んでいたならば、愛する息子成尋と別れて暮らすこの苦しみを、味わうことなくすんだものをと」。
80代の老女が、夢にも現(うつつ)にも脳裡から離れたことのない息子を主題にして−−しかもほとんどそれだけを主題にして日記を書くというのは、世界文学史上、他に類例を見ない。成尋が手紙をよこさなかったというだけで、彼女の心には、息子への、時には怒りが、時には憎しみさえ燃え上がる。
これを読むと道元の言葉を記録した懐奘の『正法眼蔵随聞記』のエピソードを思い出す。
亦ある僧云く、某甲(それがし)老母現在せり。我れは即ち一子なり。ひとへに某甲が扶持に依りて渡世す。恩愛もことに深し。孝順の志しも深し。是に依ていさゝか世に随ひ人に随ふて、他の恩力を以て母の衣糧にあつ。我れ若し遁世籠居せば母は一日の活命も存じ難し。是れに依て世間にありて一向仏道に入らざらんことも難事なり。若し猶も捨てゝ道に入るべき道理あらば其の旨いかなるべきぞ。
仏道に入りたいが母一人子一人の身、私が仏道に入ってしまったら母は飢えて生きてゆけないだろう。それでも仏道に入るべきならば、そのわけを知りたい。これは難問だ。道元が答えて曰く。
示して云く、此こと難事なり。他人のはからひに非ず。たゞ自ら能々(よくよく)思惟して、誠に仏道に志し有らば、いかなる支度方便をも案じて母儀の安堵活命をも支度して仏道に入らば、両方倶によき事なり。切に思ふことは必ずとぐるなり。強き敵、深き色、重き宝らなれども、切に思ふ心ふかければ、必ず方便も出来る様あるべし。是れ天地善神の冥加もありて必ず成ずるなり。曹渓の六祖は新州の樵人にて薪を売て母を養ひき。一日市にして客の金剛経を誦するを聴て発心し、母を辞して黄梅に参ぜし時、銀子十両を得て母儀の衣糧にあてたりと見ゑたり。是れも切に思ひける故に天の与へたりけるかと覚ゆ。能々思惟すべし。是れ最ともの道理なり。母儀の一期を待て其の後障碍なく仏道に入らば次第本意の如くにして神妙なり。しかあれども亦知らず、老少不定なれば、若し老母は久しくとゞまりて我は先に去ること出来たらん時に、支度相違せば、我れは仏道に入らざることをくやみ、老母は是れを許さゞる罪に沈みて、両人倶に益なふして互に罪を得ん時いかん。若し今生を捨てゝ仏道に入りたらば、老母は設(たと)ひ餓死すとも、一子を放(ゆ)るして道に入らしめたる功徳、豈に得道の良縁にあらざらんや。尤も曠劫多生にも捨て難き恩愛なれども、今生人身を受て仏教にあへる時捨てたらば、真実報恩者の道理なり。なんぞ仏意にかなはざらんや。一子出家すれば七世の父母得道すと見えたり。何ぞ一世の浮生の身を思ふて永劫安楽の因を空しく過さんやと云道理もあり。是らを能々自ら計らふべし。
母の生活を心配することなく仏道に入ることができればそれが一番良いだろう。深く思う心があれば願いは必ず成就する。また母の最後を待って仏道に入ればそれも良いだろう。だが、母より自分が先に亡くなることがあれば、自分は仏道に入らなかったことを悔やみ、母はそれを許さなかった罪に沈むことになり、二人とも互いに罪を得ることになる。
もし今生を捨てて仏道に入ったなら、老母はたとえ餓死しても、一人息子を仏道に入れた功徳は、得道の良縁ではないか。仏様の意思に適うというものだ。一人の子が出家すれば七世にわたって父母が得道するという。
だから成尋は母を捨てて五台山へ修業に行くべきなのだ。そしてこの論から宗教を外せば、それは実存主義になるだろう。
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