佐高信『戦後を読む』を読む

 佐高信『戦後を読む』(岩波新書)を読む。副題が「50冊のフィクション」というもの。すべて日本の小説で、小説を素材に戦後社会を論じている。ただ、これが出版されたのが1995年で、ほぼ20年前になる。発行直後に読み、今回久し振りに読み直した。
 やはり20年という時間は、取り上げられたほとんどの小説を古びさせていた。それは選ばれた作品がみな戦後社会を論じるための素材であるからだ。一般に時代に密着すれば古びるのは必然だろう。
 円地文子『食卓のない家』は連合赤軍事件の犯人の父親が主人公で、「世間」に謝罪しなかった人をモデルにしている。藤島泰輔『孤獨の人』は当時の皇太子をモデルにした。生島治郎『腐ったヒーロー』は力道山を描いている。そういえば若い頃私がボーイをした渋谷の巨大なキャバレーエンパイアは力道山のリキパレスのなれの果てだった。
 梶山季之『生贄』はスカルノに贈られた女性を「生きたワイロ」と表現して、デビ夫人に名誉毀損で訴えられた。ここに、岸信介について悪臭フンプンだったと書かれている。

 私(佐高)は、岸信介中曽根康弘小沢一郎という「無理を通す」政治家の流れがあると思う。岸にこの賠償汚職があり、中曽根にロッキード疑惑がある。それでは小沢に何があるか。それを具体的に描いた小説の出現を待ちたい。

 丸谷才一『笹まくら』が徴兵忌避者の戦後として選ばれている。まだ読んでいない。渡辺淳一冬の花火』は歌集『乳房喪失』の作者中城ふみ子を描いている。彼女が「目まぐるしいほどに相手の変わる恋の果てに、東京から取材に行った記者と同棲生活を始めた」とある。中城の歌集を読んでみよう。
 つかこうへい『戦争で死ねなかったお父さんのために』は30年遅れて届いた赤紙という設定。この項の最後に従軍慰安婦について書かれている。

 そう言えば、1992年春、京都で「従軍慰安婦」について情報電話を開設したら、元兵士たちは何の罪の意識もなく、「兵隊に女はつきもんですわ」「戦後50年近くもたっているのに、今ごろ何いうてんのや」「病気のおなごは殺してしまう、朝鮮半島からなんぼでも来るさげ」と話したという(社会評論社『性と侵略』)。

 佐々木譲『愚か者の盟約』は日本社会党のゴーマン体質と見出しが付けられている。ここに出身階級についてのエピソードが紹介されているが、フルシチョフ周恩来の話もおもしろい。

中国とソ連が路線論争で決裂後、周がモスクワを訪れた。そのレセプションの席上、満席の中で周に恥をかかせようと思ったフルシチョフは、「彼も私も現在はコミュニストだが、根本的な違いが一つだけある。私は労働者の息子でプロレタリアートだが、彼は大地主の家に育った貴族である」と言った。それに対して周は顔色ひとつ変えずに立ち上がり、こう言い返したという。
 「お話のように、確かに私は大地主の出身で、かつては貴族でした。彼のように労働者階級の出身ではありません。しかし、彼と私には一つだけ共通点があります。それはフルシチョフ氏も私も、自分の出身階級を裏切ったということであります」
 このスピーチには、満場、息をのんで声もなかったとか。

 水上勉『海の牙』は水俣病を取り上げている。まだ有機水銀が原因と断定されなかった頃、チッソの工場長も専務もどんなに無責任だったか。
 取り上げられた50冊のうち、読んだことのあるのはたった2冊、松本清張ゼロの焦点』と宮部みゆき火車』だけだった。